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<372> 志賀淑雄元海軍少佐

■志賀フリーク高橋 ■1999年11月20日 土曜日 03時44分56秒
送ったつもりの挨拶状が届いていなかった様な
ので改めます。初めまして、高橋です。
すまさんに個人的に送ったつもりのメールら、多くのレスが寄せられることになり、嬉しくも驚いています。            
今日は志賀さんが何故、サイレントネイビーを貫いてこられたかをお伝えしたいと思います。まず切実な問題として、志賀さんには今年百歳を迎えられた母上(志賀さんは兵学校で見込まれた上官に懇願?され、養子に入られた)、奥様、そして五人のお嬢様がおられます。戦後、かなりのマスコミ攻勢に会い、ご家族は相当苦労されたとの事。今でもその状況は変わらぬそうで、現在は唯一、アメリカの出版社の取材のみ受けられ、他は全て電話口でお断りしているそうです。私は本当に特別にお会いさせて頂いた訳で、実に幸運でした。         そして、これからお伝えする志賀さんのお言葉が、そのお考えを頑なにさせている大きな要因と思われます。              志賀さんは先日のメールでもお伝えした通り、戦死なさった部下達に対し、我々には計り知れない自責の思いを抱き続けておられます。要約してお伝えします。           「事実を話す事で仏が浮かばれ、遺族の方々が喜んで下さるなら、幾らでも世間にお話しします。けれど現実は全くその逆で有る事の方が多いんです・・・終戦後、部下達の名誉の戦死の状況を御遺族にお伝えしようと、何軒か訪ねた事が有りましてね。辛かったですよ。命令した隊長さんはお元気で居らっしゃるんですね、と泣かれた方も居ましてね・・・ 戦後の私の信条は、自分で出来ない事は人にさせない。技術上の事以外、危険性の有る事は自分でやる・・私はね、生き残ったんじゃ無いんです。先に死んで行った者達に生かされて居るんです。そう思うと、どんな事も辛くは思わなかったですね・・・」                戦後日本の復興の早さは、奇跡などではありません!
 


 






















このメッセージには2つのレスが付けられています。

<376> 感動しました。 <無限> ■1999年11月20日 土曜日 11時21分35秒
<374> 敬礼! <すま> ■1999年11月20日 土曜日 09時13分46秒
   <378> 指揮官の苦悩… <沖波> ■1999年11月22日 月曜日 13時59分10秒