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■志賀フリーク高橋 |
■1999年12月04日 土曜日 04時35分39秒 |
日米開戦後の講和の可能性、これは残念ながら0%でしょう。何故なら早期講和締結は、日本側の一方的な淡き夢に過ぎなかったからです。 アメリカには、どうしても戦争を始めなければならない、大きな理由が四つありました。 一、欧州での盟友、そして債務国である英国よりの度重なる参戦依頼。英国が敗れれば、多額の債権は、事実上回収不可能。 二、米国の政財界のバックボーンであったユダヤ人社会よりの、対独制裁の懇願。 三、中国大陸での権益獲得の為の足がかりを、日本の裏切りによって掴めずにいた。実は満州鉄道の建設には、米国は鉄道王と言われたハリマン等により、半ば公的に多額の投資をしていたにも関わらず、日本は一切の見返りを渡さなかった。(満鉄の利益は折半の約束だった) 四、これが最大の理由でしょう。それは米国経済の破綻です。英、仏、蘭の様に、金になる植民地を持つ国は、「囲い込み」経済により何とか窮状を凌ぐことが出来たのですが、米国にはそれが出来ませんでした。そこで取られたのがルーズベルトによる「ニューディール政策」です。これは簡単に言えばテネシー渓谷の開発等、「公共事業の前倒し」で、二桁を越えていた失業者の数も減り、一時的に経済は回復したように見えましたが、現在の何処かの国と同じく、やがて破局が訪れる事になった訳です。(ルーズベルトの死去後、大統領の座に着いたトルーマンは、就任直後、初めて開戦前の米国経済の破綻状況の報告を受け、大統領になった事を後悔したと言う手記も有る程) 以上の理由(他にもまだまだ有りますが)により、ルーズベルトにはどうしても現状打開政策が必要とされ、その起死回生の政策が戦争だった訳です。 しかし、米国世論は参戦には猛反対でした。大統領制のアメリカは、世論の反対を買っては次期選挙に勝ち目は有りません。どうしても相手から先に手を出させ、「聖戦」の名目が必要だったのです。所謂「ハル・ノート」はこうした事情を踏まえた上で提出されたもので、この条件を当時の日本が飲める筈の無いことを、一番良く認識していたのはアメリカだったのです。又、いざ開戦となった場合、「近代戦争は総力戦」と言う意味を正しく理解し、GNP、科学技術力、国際情勢等、開戦直後は苦戦を強いられるものの、敗戦の要因が皆無で有る事も、合理的且つ冷静に判断していました。 従って、勝利を確信し、開戦を望んでいたのはアメリカだった訳ですから、日本からの講和の提案など、受け入れる筈は無かったと思われます。 因みに12月7日(米国時間)、真珠湾が空襲される事を知っていたのはルーズベルトだけでは無かったと言われています。戦後、チャーチル、スターリン、蒋介石、毛沢東までもがその事実を認めています。(後からは何とでも言えると言われればそれっきりなのですが・・・)つまり日本からの宣戦布告は、アメリカの筋書き通りだった訳ですが、唯一筋書きと違ったのは日本軍の強靱さ、そして連合国側「植民地軍」の脆弱さでしょう。欧米人は、当時の亜細亜民族を完全になめきっていました。戦前、諜報により「日本軍侮り難し」と言う情報は当然入って来てはいたものの、まともに受け入れ、対策を練った様子はありません。(例えばフライング・タイガースのシェンノートよりの零戦に関するレポート) 近衛、東条内閣も勝ち目は無いと言う報告書を尽く握りつぶしたように・・・ 既に語られている事を長々と書いてしまいましたが、以上の理由から、ルーズベルトは徹底的にやる気だった訳ですから、開戦後の早期講和は有り得無かったと思っています。戦争とは、「経済政策」の一つに過ぎなかった、と言う事ではないでしょうか?
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