特 別 寄 稿
燃 料 に 関 す る 回 想 木山 正義
この「特別寄稿」は海軍機関学校第40期 木山正義氏が、かって海上幕僚監部において講演された講話の速記録であります。
平成17年2月に出版された木山氏が主催されている「御苑会」の『200回記念講演記録』に収録された「特別寄稿」をこのホームページに再録して、広く多くの方々に読んで頂きたいと思い、木山正義氏のご了承を得て、この「特別寄稿」を載せることになりました。
木山氏は平成19年には98歳になられますが、現在、鞄本化学研究所、御苑会会長等各方面に活躍されておられます。 [角信郎(機51期)記]
木山 正義氏のプロフィル
1910年 熊本県生まれ
熊本県立御船中学校より海軍機関学校へ
1931年 海軍機関学校卒業(機40期)
海軍工機学校、海軍大学校終了
東京帝国大学応用科学科卒業
南方勤務1年を経て
海軍省軍事局に転属、燃料戦備配置を担当、新燃料対策として国内資源(アルコール燃料・松根油)の開発担当
1945年 終戦
終戦直後より、海外引揚者救済を目的として日本燃料株式会社設立、その後関係会社数社を設立し、海外引揚者、戦争遺族の救済に尽力
燃料懇話会を設立、吉田首相に戦後の燃料政策を建言
財団法人水交会設立発起人、1978年より約8年間会長に就任
その他、戦死者特別慰霊会、米内会、御苑会等多数の会の運営に当たる。
燃 料 に 関 す る 回 想
〜 責 任 者 の 判 断 と 決 断 〜
平成11年9月13日 海上幕僚監部における講話より
木山 正義
目 次
◇はじめに
◇海軍機関学校
◇燃料を志す
◇近衛首相と山本長官の会談
◇日本は何故に対米戦争を決意したか
◇日本の開戦目的並びに終戦構想
◇開戦時における帝国の戦略
◇緒戦におけるハワイ作戦
◇ミッドウェー海戦
◇ガダルカナル方面の戦闘
◇あ号作戦
◇「緊急戦備促進部会」における燃料戦備説明
―海軍首脳の終戦への思考について―
◇捷1号作戦(レイテ海戦)
◇北号作戦と航空揮発油の還送
◇特攻作戦について
◇天号作戦を回想す
◇決号作戦に対する燃料戦備
◇燃料の統合と陸海軍の統合
◇日本海軍は対米戦争でいかに負けたか
【はじめに】
木山であります。只今藤田海上幕僚長より鄭重なご紹介をいただき、真に恐縮に存じます。
私は昭和3年海軍機関学校に入学、大東亜戦争当時は海軍省軍需局局員で燃料戦備担当の任にあり、中佐でありました。私が本日の講話の題を「燃料に関する回想」といたしましたのは、昭和16年の11月5日御前会議において、対英米蘭に対する戦争目的が次のとおり決定されたからであります。
1. 日本の自存自衛を全うすること。
すなわち、開戦直前の昭和16年10月8日、英米蘭の3国が対日石油輸出禁止を通告、日本の軍備、経済を窒息せしめんと企図したため、これを打破すべく、開戦を決意したのです。すなわち、石油問題が開戦の第1目的となっています。
2. 大東亜新秩序の建設
すなわち、永年に亘り、英、米、蘭の植民地である南方諸国の独立を図ること。
なお、私の話の中から「軍の責任者の判断と決断」がいかに「国家の運命」、「戦の勝敗」を左右したかということを察知いただければ望外の喜びであります。
実は、私は防衛庁、海幕の創設時から深い関係がありました。ご存じのこととは思いますが、昭和25年朝鮮戦争勃発、26年9月講和条約締結、講和条約締結前後から米極東海軍部参謀副長バーク少将(後の大将)と野村海軍大将(開戦時の駐米大使)との間で、日本の再軍備問題が協議され、海上防衛力再建のためY委員会が設置されました。
すなわち、主席委員山本善雄少将(海兵47期)、次席秋重実恵少将(海機28期)、他旧海軍出身者委員6名等により構成、私は当時、北朝鮮から引き揚げてきた海軍軍属を救済するために設立した半官半民の日本燃料株式会社の代表者であり、常任委員に就任することは不可能でありましたが、次席の秋重少将が病身であったため、委員補佐として協力しました。
その時、軍の再建計画として「3・3・3計画」が審議されました。「3・3・3計画」というのは、陸軍30万人、海軍30万トン、航空3千機という計画でした。海軍の30万トン計画とは、8,000トン級空母4隻を中核とした兵力で、これに対する戦備計画を策定したことは忘れることができません。
なお、防衛庁創設時、昭和30年東大卒の上野、三好両君が入庁され、爾来今日まで内局の人とは面識があり、海幕の方は山崎小五郎初代幕僚長以後、歴代幕僚長と面談の機会を得ていました。そのような訳で本日皆さん方にお話する機会を得たのは昭和27年以来の絆によるものと想い感慨深いものがあります。
【海軍機関学校】
実は、私は熊本県出身であり、親戚には陸軍軍人が多く、海軍は私の母の末」弟で山本五十六大将と同期の叔父一人だけでありました。私自身も、陸軍士官学校に進学するものと、そう心に定めておりました。
したがって、中学5年の時、陸軍士官学校を受験しましたが、ほとんど同じ時期に海軍機関学校の入学試験がありましたので、両校を受験しました。(当時、海軍兵学校の受験は両校より1ヶ月程後に行われていました。)両校受験の結果、両校に合格しました。当時、私の従兄が陸軍大学在学中であり、喜んでくれました。その時、中学校の東大英文学出身の“浦霧末松”という先生が私を呼んで、「陸士や海兵は勿論良い学校である。しかし、海軍機関学校は軍人の学校として立派であると共に、一般の学校と比べても優れた学校と聞いている。是非海軍機関学校に行き給え。」と勧められ機関学校に入校しました。人間の運命とは真に不思議なものとしみじみ感じます。皆さん方は、どういういきさつで、自衛隊に入隊されたのでありましょうか。
海軍機関学校に入校して今なお忘れることのできないことが一つあります。それは、入校後、私は1分隊に配属されましたが、この第1分隊監事の斎藤元固機関少佐(海機24期)の訓であります。斎藤教官は訓辞の後、よく、「名利を求むるなかれ。使命を尽くせ。使命に死せ。」と申しておられました。ご承知かと思いますが、軍人はすぐ名誉がどうとか申しますが、斎藤教官は「名利等というものは与えられるものであり、求めてはならぬ。命を賭して使命を尽くせ。」と訓示されておりました。そして、日露戦争における旅順閉塞作戦の話をされ、軍歌にあるとおり、第1回閉塞隊隊員77名の内、約8割は機関科将兵であったが、指揮官広瀬中佐は軍神と仰がれた。この指揮下にあった将兵一同はただひたすら黙々と己の責務を遂行した。この精神こそ軍人にとり、最も大切であると教えられました。
この「名利を求むるなかれ。使命を尽くせ。使命に死せ。」という訓は軍人のみならず、全ての人々の守るべき訓であり、齢90歳になった今日においても深く心に留めております。
浦霧先生が私に対し、「機関学校に入学するように」と勧められたのは、機関学校にこのような校風があることを知っておられたためではなかろうかなどと、回想します。
ちなみに、斎藤教官は、愛国的キリスト教徒、内村鑑三先生の弟子であることを学校卒業後知りました。
【燃料を志す】
昭和6年海軍機関学校卒業後、練習艦隊“磐手”、連合艦隊“摩耶”等に勤務、機関中尉となり、横須賀にあった海軍工機学校に入学しました。
同校在学中、昭和11年2月26日、皆さんもご存知の「2・26事件」が勃発、国の内外に大きな衝撃を与えました。時の横須賀鎮守府司令長官は
米内光政中将、参謀長は井上成美少将、機関長が鍋島茂明機関大佐でありましたが、この事件の時、私は若干「左巻き」と思われたようです。なぜかと言えば、程なくして私は遥か遠く支那方面艦隊の砲艦“保津”機関長に左遷されたからであります。保津は排水量わずかに300トン、その付近の海面にあるポンポン船と同じ位で、当時上海より揚子江を遡ること実に3千キロ、支那大陸の奥地宜昌に碇泊中でありました。今でいえば、北極圏に近いシベリアの奥地に赴任するようなものです。
私が支那に赴任する時、2〜3の者から「君は左巻きのレッテルを貼られたな!!」と言われたことを時々想い出します。しかし、元東大総長の林健太郎氏は「20代で社会主義的な考えを持たない奴は馬鹿だ!!」と言われておりますので、当時の小生の思考はまあまあ普通であったと思います。なお、林氏は、「40歳以上になってもなお、社会主義的考え方を持っている者はもっと馬鹿だ!!」と言われています。林さんの言葉を思い出すたびに、今の日本には、進歩的文化人とか、何とか言って、随分馬鹿が多いなとしみじみ思います。
それはそれとして、長崎から長崎丸で上海に渡り、上海から揚子江を遡り、約1ヶ月かかって、四川省の宜昌に到着いたしました。
皆さんご存じのとおり、新任士官が艦に着任する時は、必ず士官または下士官指揮の迎えのボートが来ます。しかし、私の乗っている船が宜昌についても、誰も迎えに来てくれません。
しばらくすると、一人の支那人が「ホアツ」(2〜3人乗りの小さい舟)を漕ぎながら船に近づき「機関長さん!!」と呼ぶではありませんか。小生迎えの舟です。この時ばかりは、いささか身にこたえました。
私の揚子江勤務は約1年有余、その後期はご存知のことと思いますが、蘆溝橋事件が勃発、戦禍が揚子江方面に及び、戦時勤務となりました。この間、私は重要な2つの経験をいたしました。
一つは石油問題に関心を持ったことです。すなわち、上海から九江、漢口(武漢三鎮)に至る間、石油と言えば全て欧米に掌握されていたことに気付きました。当時「石油の一滴は血の一滴」とまで英国のチャーチルが申していましたが、支那は完全に欧米の支配下にあると痛感しました。日本はどうであろうか!! 等と考え、石油問題を研究しようと思ったわけです。
以後、私は海軍在籍中、燃料方面の勤務に終始し、私の人生に大きな影響を与えたようです。
今一つは昭和12年12月1日勃発の南京攻略作戦に参加、南京陥落まで約1ヶ月弱戦場にありましたが、この短期間に3回に亘り決死行の指揮官となったことです。
人生というものは真に不思議なもので、私は同年12月1日付けを以て海軍大学校専科学生に任じられたのですが、その日乃ち12月1日に南京侵攻作戦が発令、しかも乗艦保津は南京攻略作戦の先頭艦を命ぜられました。
したがって、そのまま先頭艦機関長の任務を遂行しました。しかも遡航作戦開始直後、乃ち12月4日、突然艦長より江陰下流の閉塞線啓開の決死行を命ぜられ、部下6名を引率指揮し、烈しい攻撃を受けながらも見事に航路啓開に成功。以後我が南京攻略隊の侵攻を容易ならしめました。
更にその後、敵艦寧海の拿捕、烏龍山下流の閉塞線強行啓開等、3回に亘る決死行指揮官として重要使命を完行しました。
時の支那方面艦隊(第3艦隊)司令長官は長谷川清中将でありましたが、昭和15年、支那事変の論功行賞の際、戦場にあること僅かに1ヶ月に満たないのに部下と共に軍人として最高の栄誉乃ち金鵄勲章を授与されました。しかしながら、私が当時痛感したことは、いわゆる軍令承行令の最も厳しい時代、しかも激戦の最中に於いて、乗艦保津には小生より一期上の海兵卒の先任将校が居るにもかかわらず、何故に私が決死行の指揮官になったかと言うことです。
それはそれとして、この決死行に於いて部下に就いて感じたことをちょっとお話ししたいと思います。それは、戦場においては常々勇壮に見える兵よりも、真面目な兵ほど勇敢に与えられた任務を遂行すると言うことです。
爾後私は部下を見る目、人を見る目が変ったようです。
正直で真面目な人ほど尊いものはない!! 今でもそう思って居ます。皆さん方も思い当たることがおありと思いのすが、いかがですか?
私は先ほど申しましたとおり、昭和12年12月海軍大学選科学生を命ぜられましたが、上記の事情により12月末に入学、海大在校約1年半、続いて昭和14年4月東京帝国大学工学部に入学、桑田勉教授の下で応用化学を勉強、その間、海軍省、燃料廠、その他との接触を計り、日本の燃料行政、海軍の燃料政策等を勉強しました。
当時日本は、重大な時局を迎えんとしつつありました。すなわち、昭和14年9月、英仏は対独宣戦を布告し、第二次世界大戦に突入しました。開戦後約1年、すなわち、昭和15年中頃、独軍はパリに入城、ペダン政府誕生、同年9月27日、日独伊三国同盟締結、昭和16年4月12日、日ソ中立条約締結、同年6月22日、独軍ソ連進撃、独ソ戦に突入しました。真にめまぐるしい情勢の変化の中、我が国にとり、国家存亡にかかわる重大問題が突如発生しました。
それは、昭和16年10月8日、米、英、蘭の三国が対日石油輸出禁止協定を発表し、直ちに実行したことです。この協定は年間石油生産量僅かに30万キロリットルに過ぎない日本の存亡に関わる大問題であり、これは大変なことになるぞと思っていたところ、10月18日東条内閣誕生、日本は国家存亡の危機をいかにして克服すべきかの重大時局に突入しました。
【近衛首相と山本長官の会談】
昭和15年9月頃だったと記憶しますが、時の連合艦隊司令長官山本大将が、当時の総理近衛文麿氏を訪問、会談されました。
当時ドイツは各戦線において連戦連勝し、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結し、他方米国は英国と同盟を強化し、日米間は次第に緊迫しつつある時でありました。会談はこのような時に行われたのでありますが、もし、日米相戦わざるを得ない時はどうなるのであろうかの問題について、山本長官は次のように話しています。
「……結果を考えずに是非やれと言われれば、初めの一年や一年半は存分に暴れて見せます。しかし、二年、三年となれば、責任を持てない……」と述べております。この山本長官の話は、一国の運命を左右する帝国海軍の最高責任者の言葉としては如何なものかと、密かに厳しい批判をした人々もあったようです。
しかし、当時私は、この話を聞き、山本長官は「艦隊戦闘力の第一は行動力にある」という観点から意見を述べたものであると直感しました。すなわち、当時わが海軍の平時における燃料消費量は年間約100万トンであり、戦争に突入すれば、その所要量は平時所要量の約4倍、すなわち400万トン必要となります。当時、日本海軍の燃料備蓄量は約600万トン(実際は650万トン)でありましたから、山本長官は、この燃料備蓄量から見て、1年や1年半は暴れて見せますと申されたと推定します。すなわち、裏を返せば、対米戦争は、やってはいけないという進言であったと思います。
当時、近衛さんは第2次近衛内閣を組織し、陸海軍はもとより、政界、財界並びに国民から厚い信頼を受けておられた時であり、山本長官の心中を洞察するに、全力を挙げて日米対立外交から日米協調外交へ取組むべき時であったと思います。すなわち、当時交戦中の英、独はそれぞれアメリカ、日本の同盟国であります。したがって、近衛さんが大局的見地に立って、米大統領ルーズベルトに対し、「日米協力して英独間の講和条約を締結せしめようではないか」と強く提案協議したならば、第二次世界大戦は欧州のみで終わったと思います。その結果、日米両国は戦うことなく平和国家として発展したと思います。そして、英明な昭和天皇のもと偏りすぎた陸海軍人も次第に改革され、支那大陸からの撤兵、南方資源の確保等平和裡に行われ、新生日本時代を迎えたのではないかと思います。要するに近衛二次内閣時代こそ、日本運命の分岐点であったと思いますが、残念ながら近衛さんでは不可能だったわけです。
今一つ、井上成美大将のことをお話したいと思います。井上さんが航空本部長時代、すなわち、昭和16年初頭、当時軍令部提案の軍備を「明治の頭で昭和の軍備を行わんとするものである」と、大艦巨砲主義を厳しく批判されました。そして、「戦艦不要論」と「海軍航空化」を骨子とした「新軍備計画」を時の及川古志郎海相に提出されました。
もし、井上大将の提案が採択され、航空機を中心とした新軍備が推進され、太平洋方面の重要諸島を不沈空母としての防備を強化完備したならば、日本は不敗の態勢を確立し、講和の好機を得たと思います。
私は終戦前、約一年近く海軍省において井上成美次官のもとで勤務しましたが、井上大将の「新軍備計画」「兵学校長時代の教育改革」及び「終戦の決断及び推進」は責任者として真に立派であったと思います。
思うに一国の軍備をどのように策定するか、内政外交をどのように進めるか、容易なことではありません。特に、現在のように驚異的な科学の進歩、情報技術の更なる発展時代においてはなおさら至難と思います。
今から六十余年前、日本が日本の運命を決定すべき時、我が海軍の二提督にまつわるこの話が何等かのご参考になれば、真に幸いです。
【日本は何故に対米戦争を決意したか】
昭和天皇は欧州において、第二次世界大戦が勃発し、戦渦は日に日に日本に及ばんとする時、大変心を痛めておられたが、国政に関与すべきお立場ではないため、ご意志をお漏らしになることは全くなかったとのことでありますが、いつのご前会議であったかは存じあげませんが、
四方の海 みなはらからと 思う世に
など波風の たちさわぐらむ
と言う明治天皇の御製をお示し遊ばされたと聞いています。
天皇陛下のこのような大御心を推察し、時の政府首脳達は、日米戦争回避にあらゆる努力を尽くしたと思います。
当時、アメリカの考えは、「日本は対米戦争を絶対にやらない」と判断していたようです。その理由は、明治40年以来、日本はアメリカを仮想敵国の第1位としている。しかも、アメリカは太平洋遥か彼方の大国である。したがって、このような国と戦争しても絶対に勝つことはできない。したがって、常識的に見て日本は絶対にアメリカとは戦争をしないと判断していたようです。
他方、燃料問題から見ても、日本は絶対に勝ち目はありません。すなわち、海軍戦闘力の第一は鉄砲でもなければ、魚雷でもありません。戦闘力の第一は行動力です。
この行動力の根元は燃料です。この燃料の日本における生産量は年間僅か30万トンです。もし、戦争になったら、戦時所要の一ヶ月にも足りない。しかも、小生が東大在学中、当時海軍所要燃料は全量米国より輸入していました。そして、海軍燃料廠の石油関係技術も、米国の技術と密接な関係がありました。したがって、燃料面から見た場合、米国とは絶対に戦うべきではなく、もし、開戦を主張するとすれば、狂気と言う外はありません。すなわち、日本は昭和16年初頭以来、米国との衝突を避けるため、あらゆる外交努力を尽くしました。
しかしながら、その効なく、昭和16年10月8日、英米蘭は対日石油封鎖を宣言し、日本の首の根を締め付けたのです。さらにまた、米は同年11月26日、ハルノートを突きつけました。その内容は、絶対承知できないものでした。すなわち、「仏領印度支那並びに支那大陸に進駐の軍隊並びに警官を全部撤収すべし」という内容のものでありました。これでは宣戦布告と同じで、隠忍のわが国もついに「座して死を待つより立って活路を開く」ということで開戦の決意をせざるを得なかったと思います。思うに戦争回避の好機は昭和15年山本連合艦隊司令長官が時の近衛総理と会談の頃であり、もし当時の総理が山本権兵衛、加藤友三郎のような人物であれば、必ず戦争の危機を回避できたと思うのであります。
(参考)開戦の経緯について、戦後開かれた海軍首脳の座談会記録が元毎日新聞記者・元海軍報道班員・新名丈夫著書にあります。
【日本の開戦目的並びに終戦構想】
一国が他国に宣戦を布告する以上、当然のことながら、戦争目的を明示するとともに、いかにして戦いを終結するかを明確にすることは極めて重要な問題であります。
明治末期におけるロシアとの戦いにおいて、支那の倍もある国土を持つ超大国ロシアに勝つことは絶対にできない、したがって、いつ、どのような条件で講和するかは、最大の問題であったと思います。
特にこの戦いにおいてロシアに敗けたら国は潰れ、日本民族は消滅する。
よって明治34年6月第4次伊藤博文内閣に代わり組閣した桂太郎内閣の海軍大臣山本権兵衛大将は、翌35年1月締結の日英同盟を中心に政治、戦略、戦備に万全の計画を推進、中央の指示に従えば、誰が連合艦隊司令長官になっても必ず勝つという不敗の態勢を確立されたのであります。
乃ち、英断を以て、いささか「利かぬ気」の日高壮之丞常備艦隊長官を免じ、東郷平八郎大将と交代させられたのであります。
明治37年2月16日、日露戦争宣戦布告以後、陸海両軍共に善戦、明治38年3月奉天会戦の大勝、5月27日、日本海海戦の大勝を期に、米国を仲介に同年9月日露講和条約を締結されたのであります。
大東亜戦争においても、開戦の目的を明確にするとともに、いかに戦争を終結するかにつき、次のとおり決定したのであります。
すなわち、開戦目的は冒頭に話したとおり
1.
日本の自存自衛を全うすること。
2.
大東亜の新秩序を樹立すること。
次に終戦構想は次のとおりでありました。
1.
日本の自存自衛を確立し、長期不敗の実をあげる。
2.
日、独,伊三国協力して英国の屈服を図る。
3. 蒋政権の屈服を図る。
この内、2.3.を達成すれば、アメリカは戦争継続を放棄し、日本と講和するであろう。
以上のような終戦構想を持ったことは真に不明であったと言わざるを得ません。日米が戦争する以上、世界は2つに分かれて戦うわけですから、仲介する国家はありません。結局最終の勝敗で決まるわけで、日本にとり、全く不運な開戦です。
これは全く私個人の思い出ですが、天皇陛下が、皇太子であられた時、ローマ法王庁を訪問されたことがありますので、開戦後、適当な時にローマ法王に仲介を頼んだら等と思ったこともあります。
【開戦時における帝国の戦略】
日本の対米英蘭に対する開戦の目的は先にお話ししたとおり、その第1は、日本の自存自衛を全うすること、すなわち、わが国の政治経済軍備上絶対必要である南方油田地帯の確保であります。
したがって、この目的を達成するために、いかなる戦略をもって対米英戦争を遂行するかは、燃料戦備担当者としては最大の関心事であります。
ご存じのとおり、相手のアメリカは太平洋遥か彼方にあり、支那と同じ広大な国土を有し、首都ワシントンは大西洋に面しています。このような世界の大国を相手に経済的、軍事的小国日本が戦うわけですから、絶対に勝つことはできません。したがって、守勢を固め、戦を進めながら講和の好機をつかむ以外に方途はないのであります。したがって、開戦にあたり、帝国の対米英蘭に対する戦略は概ね次のとおりでありました。
1.
わが帝国の生命線というべき南方資源地帯は可及的早期にこれを占
領確保する。
2.
フィリピン、蘭領印度支那諸島、仏領印度支那、ビルマ東部(援蒋ル
ート)を制圧、これを確保する。
3.
太平洋方面についてはラボール及びマーシャル群島を東方限度とし、
北はアリューシャン列島を制覇し、これらを確保する。
以上のとおり、いわゆる持久作戦態勢を確立し講和の好機を得るという戦略でありました。この内、陸海軍間で激しい論争の的となったのはラボール問題でありました。
すなわち、陸軍の主張はラボールを最前線とすることは、余りにも遠隔の地であり、これを守備するためには、膨大な補給貨物舶、タンカーを必要とし、帝国の戦力を著しく消耗し危険である。したがって、トラック諸島を東方限度とし、トラックをはじめ、トラック以西の太平洋諸島を強力な航空基地とし、敵の来襲を阻止し、不敗の持久態勢を確立すべきであると主張します。しかし、海軍はラボールを東方限度とすべき旨、頑固に主張しますので、最終的にはラボールを東方限度とする旨、帝国の戦略として決定されました。思うに海軍は、日露戦争以来、海戦を重視し、補給問題をいささか軽視したきらいがあります。
後でお話ししますが、その後海軍はラボールを東方限度とせず、陸軍と協議することなく、ラボールよりも更に南東約600浬(東京―屋久島の距離)もある「ガダルカナル島」に進出、激しい消耗戦を繰り返します。すなわち、昭和の海軍は、燃料、軍需品等の補給問題を軽視する傾向があったように思われます。
いずれにしても、「帝国の戦略」は南方資源地帯を確保し、不敗の持久体勢を確立し、講和の好機をつかむことでありました。
【緒戦におけるハワイ作戦】
ハワイ奇襲作戦は、開戦前極秘裏に、かつ、極めて周到に計画実施された作戦であります。昭和16年12月8日、この作戦の成功が報道されると、朝野を挙げての大祝賀でありました。しかし、この作戦の指揮官山本連合艦隊長官に対し、米国の戦史研究家モリソン博士は「……戦略上から見てこれ以上に愚劣な作戦はない……」と評しています。
その理由は、「敵の巨大基地を攻撃する場合は、その基地の兵力はもちろんのこと、その基地のあらゆる施設を徹底的に叩くべきである。日本海軍はハワイ奇襲時、その戦闘力と時間を十分に持っていたにもかかわらず、これを実行せず、引き揚げて行った。これは、戦闘を知って戦争を知らぬ戦である。」と酷評し、更に言葉を続け、「日本海軍指揮官の戦略思想の幼稚さは哀れである。」と決めつけています。
当時、ハワイはアメリカ海軍の前線基地であり、港湾施設、造修、軍需施設が完備し、特に作戦用の燃料500万バーレル(約100万トン)が備蓄されていました。これらに一指も触れず、引き揚げた日本海軍が酷評を受けるのは当然です。
思うに、当時山本連合艦隊長官は、ハワイ奇襲の機動部隊、すなわち、第1航空艦隊司令長官南雲中将は必ず2次、3次の攻撃をしてくれるものと信じていたに相違ありません。すなわち、奇襲部隊が引き揚げてきた時、連合艦隊参謀長宇垣中将は、奇襲部隊の草鹿参謀長に対し、「何故2次、3次攻撃をしなかったか」と詰問します。この詰問に対し、草鹿参謀長曰く「……武士の戦いというものは一太刀浴びせたら、サッと身を返すものである。行きがけの駄賃というものは下司の戦法である……」と答えたと言われています。
これこそ戦闘を知って戦争を知らぬ作戦であると言わざるを得ません。すなわち、モリソン博士の言う愚将とは山本長官ではなく、奇襲部隊の南雲長官であると言うべきでしょう。もしあの時、第2次、第3次の徹底攻撃により、ハワイ前進基地を壊滅したならば、その後の日米海戦は相当異なったものとなったでありましょう。
この大勝により、日本海軍部内に「……アメリカ何するものぞ……」という驕りの精神が生じたように思われます。
他方、アメリカにとっては、ルーズベルト大統領をして「……日本海軍は卑劣極まる。宣戦布告なき、だまし討ちである。卑劣な日本を叩き潰せ……」と国民の闘争心と愛国心を掻き立て、それが巨大な戦力となり、以後アメリカは連戦連勝を続け、日本海軍は惨憺たる敗戦を続けます。
ある評論家が申しました「……ハワイ奇襲の成功は日本敗戦の序曲である……」と。私はハワイ奇襲作戦を回想するたびに、責任者の判断と決断がいかに重大であるかをしみじみ痛感するものであります。
【ミッドウエー海戦】
先程申したとおり、ハワイ奇襲はアメリカから見れば、だまし討ちであつたが、日本海軍、日本国民から見れば、緒戦における大勝利でありました。この錯覚した大勝利が、いささか日本海軍に対し驕りの心をもたらしたことは否定できません。
このミッドウエー作戦が行われる前、横須賀あたりでは、この作戦の話が流れていたことは事実であり、アメリカにもその情報が掌握されていたのではないかと思われます。
海戦の詳細は省略しますが、この海戦において我が方の損失は、正規空母4隻、航空機320機、戦死者3,500名でありました。これに対し、米海軍はヨークタウン1隻、航空機約150機の損失程度で、日本海軍は建軍以来初めて大敗を喫しました。この海戦以後、わずか半年にして日本は海上権を次第にアメリカ海軍に掌握されることになります。
なぜ大敗したか。その原因は指揮官の合理性の欠如と驕りによるものではないかと思われます。すなわち、最初ミッドウエー島を爆撃するため攻撃機は全て爆弾を搭載しており、いざ出撃にあたり、敵空母来たるの通報により空母攻撃のため、急遽魚雷に換装するわけです。この兵装交換は印度洋作戦において山口多聞司令官が実験の結果、1時間以上の時間を必要とすることを確認しました。したがって、山口司令官は南雲司令長官に対し、「……速やかに発進するを可とす……」との意見を具申されたのですが、入れられず、この結果、兵装交換の大混乱中、敵航空機の攻撃を受け、己の魚雷、爆弾の大爆発により艦は次々に沈没したわけです。
上に立つ者の合理性の欠如が、いかに重大な結果を招来するかの好例と思います。
私はこの機会に皆さん方に是非話したいことがあります。それは、太平洋戦争中、日本海軍に壊滅的打撃を与えたアメリカ太平洋司令長官ニミッツ提督と、このミッドウエー海戦、並びにマリアナ海戦において日本艦隊を撃破したアメリカ機動艦隊司令官スプルーアンス提督について話したいと思います。
敵将スプルーアンスは若い時、通信情報関係の士官です。日本海軍であれば、絶対に艦長や司令官にはなれない系統の士官です。しかしアメリカは人物本位で重要配置に抜擢します。
私の知人で兵学校出身の優れた人物がいました。しかし、彼は通信で、遂に駆逐艦長にもなれませんでした。
日本海軍は人事が硬直化しつつあり、砲術か水雷出身でなければなれないのです。人物本位ではありません。これも敗戦の一つの大きな原因でしよう。ニミッツ提督は尉官時、機関関係の士官であり、特にディーゼルエンジンの研究者で、優れた技術者でありました。したがって、民間の内燃機関係会社より優遇をもって迎えたいとの依頼があった程の人です。若い時、このような技術者であっても、長ずるに及び、指導者として相応しい人物であれば、米海軍はその者に最高責任者の地位を与えるわけです。なお、両提督は敬虔なキリスト教徒であったことを附記します。
このような柔軟な人事行政が米海軍をして不敗の軍たらしめたと思います。我が陸海軍も日露戦争までは人事も極めて柔軟でありましたが、大正、昭和における人事は次第に硬直化したように思われます。
私は今でも時々そう思うのでありますが、もしあの大東亜戦争中、松下幸之助氏のような人物が居て、その者を軍の最高指導者としたならば、日本は大勝していたのではないかと思います。否、大勝しなくても、五分五分の戦を展開し、有利な終戦を迎えたのではないかと思います。
支那の古典司馬遷の史記の中に次の事が記述されています。「……優れた宰相は優れた将軍、優れた実業家に成り得る。優れた実業家は優れた将軍、優れた宰相に成り得る。優れた将軍又然りであると……」として、その実例を示して訓えています。
私はミッドウエー海戦を思う時、あの勇壮な南雲中将の代わりに、合理的かつ知的な山口少将を最高指揮官に任用したならば、必ず大勝を納めたでしょう。真に残念です。
しからば、なぜいつ頃から山口少将のような人が少なくなったのでしょうか。想うに日露の戦において日本海海戦の大勝をもたらしたのは海軍大臣山本権兵衛であります。この山本海相は明治39年2月まで在任し、その間「海軍軍備は海軍省主導、政治優先、合理主義」という海軍運営方針を定めました。
以後各大臣、すなわち斎藤實、八代六郎が継承し、特に加藤友三郎が更に確固たるものにして、財部彪、村上格一、岡田啓介の各大臣に伝承します。しかし、昭和7年伏見宮博恭王殿下(大将)が軍令部長(昭和8年から軍令部総長)に就任されると、海軍硬派の意見により翌年3月「軍令部条例改正」並びに「省部互渉規定」を提案、昭和8年9月強引にこれを成立させます。平たく話せば、海軍兵力量決定等が海軍省主導であったものが、軍令部主導となります。
この時、軍令部の南雲忠一大佐(後のミッドウェー海戦時の長官)と海軍省軍務局1課長井上成美大佐(後の大将)との論争は極めて烈しいものであったと聞いています。この時以後、いわゆる海軍の良識派と言われた人々が逐次退官し、強硬派とでも言うべき人達が重要配置を占めます。
このようにして、日本海軍は、次第に日米戦争へと傾斜していくわけです。大東亜戦争前からの海軍人事は将来とも貴重な研究事項であると思います。
【ガダルカナル方面の戦闘】
開戦にあたり我が帝国が決定した戦略については先程お話しました。すなわち、我が海軍はラボールを最前線とし、それ以西の太平洋諸島をいわゆる不沈母艦化し、敵の来襲に耐え、好機を得て航空機、海上戦の挑戦により、漸減作戦を強い、これを繰り返すことにより敵を屈服せしめるという、日本海軍の戦略を実行すべきであったと思います。
しかるに日本海軍は大本営陸海軍部の作戦協議において、陸軍に何ら説明または通報することなく「ガ」島に飛行場の建設を開始します。そしてその争奪戦が展開し、陸軍も海軍の要請により、この泥沼戦闘にのめり込み甚大な損害を蒙ります。
もともと陸軍参謀本部は、先に話したとおり、開戦時の戦略として海軍のラボール進出さえ猛反対したわけで、それより更に600浬も遠い「ガ」島進出など沙汰の限りとして、海軍の要請により「ガ」島進出に同意した陸軍省軍務局長佐藤賢了中将と、作戦部長田中新一中将とが激論の末殴りあうわけです。最後は当時の東条陸相の決断で田中中将を南方総軍へ転出させ、解決しますが、それ程この作戦は重大問題でありました。
独断で「ガ」島に進出した海軍は、第1次ソロモン海戦より第3次ソロモン海戦、その他の攻防戦において、人員、艦艇、船舶、燃料等消耗の限りを尽くしました。そして約半年後、昭和18年2月、山本連合艦隊司令長官の「転進命令」により中止となるわけですが、しかし、山本長官が昭和18年4月戦死された後もこの方面の戦は続き、更に多数の戦死傷者を出し、多くの艦艇と膨大な輸送船、燃料を消費し、その後の日本海軍の戦力に多大の打撃を与えたのです。
私はこの「ガ」島攻防、並びにそれに関する諸作戦にどれだけの燃料を消費したか、今数字でお話しすることができませんが、昭和19年1月現在の海軍燃料保有量が、余りにも少ないのに愕然としたことは忘れることができません。大東亜戦争開戦にあたり、決定された「ラボール」を最前線とする大方針を守らず、多くの将兵を死に至らしめ、膨大な航空機、船舶、軍需品等を浪費した罪は極めて重いと思います。
【あ号作戦】
先ほど申したとおり、私が理解できないのは、昭和18年2月「ガ」島方面の撤退を決定したのにもかかわらず、我が海軍は南東方面からの敵の侵攻を恐れてか、ソロモン方面絶対死守を主張し、昭和18年後期に至るまで消耗戦を続けたことです。陸軍は「ガ」島方面を打ち切り、早急にカロリン群島、マリアナ諸島方面の防備を強化すべきであると主張します。両軍の意見調整中、敵は中部太平洋方面攻撃に戦略を転じ、昭和18年9月頃よりギルバート諸島方面に侵攻し、11月には同諸島のマキン、タラワを占領、更にマーシャル群島方面に侵攻し、昭和19年2月には、同群島の要衝クエゼリン、ルオットを制圧します。
これより先、我が大本営は敵の太平洋中部方面の侵攻を予期し、昭和18年9月10日、「絶対国防圏」を設定、これを死守する方針を決定しました。
「絶対国防圏」とは、千島列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、ニューギニアの西部を結ぶ防衛線であります。
しかし、敵の侵攻は、真に早く前述のマーシャル制圧後、19年2月には、我が海軍重要基地であるカロリン諸島の「トラック」を急襲します。それに対し、我が海軍はいかなる理由か、一矢も報いることなく大損害(同基地航空機300機全滅、輸送船30隻沈没、艦艇6隻沈没、5隻大破)を受けます。同年3月末、古賀連合艦隊司令長官が戦死されます。しかし軍令承行令という制度のため、長官不在期間約1ヶ月余、同年5月3日豊田副武大将が長官に就任します。(この問題について、お話しする機会がありましよう。)
これより先、我が海軍は、「絶対国防圏」決定後、中部太平洋方面より進撃する敵をマリアナ方面に邀撃、これを殲滅するため、1,500機に及ぶ航空機、並びにパイロットの養成に着手しました。この時、私は訓練用燃料補給にあらゆる努力を尽くしました。この新鋭機1,500機を中核とした基地航空部隊約2,000機をもって第1航空艦隊を編成、勇将と言われた角田覚治中将が長官に就任されました。
昭和19年6月初旬、空母16隻(正規7、改装8)を中心とする敵大艦隊がマリアナ攻略に来襲、我が海軍は同年6月10日、あ号作戦を発令、これを迎え撃つわけです。その作戦はまず我が基地航空隊が敵を強襲し、敵空母の1/2を撃沈、その残存部隊と小沢治三郎中将のひきいる我が機動部隊が交戦、敵を撃滅するという作戦でありました。ご存じの方もあろうかと思いますが、マリアナ方面の海戦は長い間海軍大学の図上演習で研究されたものであり、いわゆるホームグランドにおいての海戦でありました。
しかしながら、敵はマリアナ攻略に際し、各基地所在の我が航空隊を強襲、これを撃滅後、海上決戦を行う計画でありました。
残念ながら、我が基地航空隊は油断のためか、敵情偵察不十分のためか、2,000機に及ぶ航空機が各基地で一方的に撃破され、海上決戦に参加した航空機は航空艦隊初期兵力の2割に満たない惨状でありました。
小沢機動部隊は基地航空隊の状況を承知しながらも、空母機等480機を活用し、決戦を強行せんとされましたが、強力な敵潜水艦隊の強襲を受け(いわゆる潜水艦による漸減作戦)、空母3隻を失い、4隻に被害あり、空母機の損失も大きく、ついに6月19日決戦を断念されたのであります。
あ号作戦発動時の我が機動部隊の兵力は、空母9、戦艦5、重巡3、駆逐艦29、艦載機480機であり、今次大戦中最大の艦隊でありました。このような大艦隊と基地航空隊約2,000機をもって、敵を迎え撃つ作戦でしたが、惨敗に終わり、しかもその後の資料によると米海軍の損失はわずかに航空機百数十機を失ったのみで、惨敗よりも悲惨というべきでありましょう。
なぜに惨敗したか。その原因は、先にお話ししたとおり、この大戦直前に軍令承行令という制度により、連合艦隊司令長官が1ヶ月以上任命されなかったこと。更に又、ある人は第1航空艦隊司令長官角田覚治中将の責任者としての指揮統率が不適切であったと論評します。私はあの期待した基地航空隊が、なぜに戦うことなく潰されたのか、全く理解に苦しみます。国民の血の出る努力によって生産した航空機を何等活用することなく、基地において各個爆破されたということは、やはり、角田長官の責任でしょう。
私は小沢中将を知っていますが、小沢さんは緒戦において、南遣方面艦隊司令官として英国東洋艦隊を撃滅し、南方資源地区確保に大功をたてられました。しかし、天皇陛下ご臨席において、我が統帥部が決定した「絶対国防圏死守」の命を受け、あ号作戦に参加し、その責任を達成できなかったのは不運と言うべきでしよう。
この作戦の失敗により、日本は太平洋方面において丸裸となりました。そして、マリアナ基地より、日本本土空襲は日増しに烈しくなり、敗戦は目前に迫りました。
この敗戦は我が陸海軍統帥部並びに内閣を揺るがすものとなり、昭和19年7月18日開戦以来の東条内閣が退陣し、同年7月21日小磯、米内内閣が誕生、そして8月19日御前会議で、世界情勢判断と今後とるべき戦争指導方針が決定されました。
【「緊急戦備促進部会」における燃料戦備説明
― 海軍首脳の終戦への思考について―】
先に述べましたとおり、昭和17年中期より昭和18年後期に至るまで、我が海軍はソロモン方面等の海戦で消耗戦を繰り返し、マーシャル、カロリン方面の防備を怠ったため、米海軍に制圧され、日本の「絶対防衛圏」と決定されていたマリアナ諸島も、あ号作戦に大敗の結果、米海軍に制圧され、日本は完全に丸裸になりました。この重大な局面を迎え、東条内閣は退陣、昭和19年8月19日の御前会議において、「世界情勢判断と今後とるべき指導大綱」が決定され、これに関連してと思われますが、8月下旬、海軍省において海軍次官主催の「緊急戦備促進部会」が開催されました。
この緊急戦備促進部会は、昭和19年6月に制定されましたが、制定後初めて、井上成美次官の主催で開催され、説明者は部課長でなく、戦備担当局員が直接説明するよう指示されました。
当時最も重大視されていたのは、もちろん、燃料戦備であります。私は燃料戦備の直接の責任者として何等粉飾することなく、ありのまま説明しました。要点は次のとおりです。
1. 昭和17年4月ラボール基地防衛のため「ガ」島方面に侵攻以来、
かつ「ガ」島撤退後においても、同方面の消耗戦は続き、大量の貨物船並びにタンカーを消耗し、特に燃料の消費量は膨大であり、昭和19年8月末現在、国内燃料保有量は次第に逼迫しつつあります。
2. 内南洋を敵に占領された現況から見て、国力、戦力の根幹である南
方油田地帯より国内に石油を輸送する海路、すなわち東支那海及び台湾海峡は次第に危険になりつつある。したがって、輸送航路の確保に万全を期していただきたい。
3. しかし燃料戦備責任者として、いつ、いかなる時、南方資源地帯と
の交通が遮断されるやも知れず、万が一の場合を考慮し、ドイツ駐在武官の情報に基づき、農林省の協力により、本年4月より、松根油の開発生産による重油、並びに航空燃料の生産を推進中であります。昭和20年の末頃には戦力化するものと予想しています。(生産計画を詳細説明)
4. 航空機用アルコール燃料については、大蔵、軍需、農商各省の協力
を得て推進中であり、これが増産態勢に入るのは昭和20年10月頃と予想しています。なお、アルコール原料の確保については、特に意を用いています。(生産計画を詳細説明)
最後に、南方油の還送については、最大限の努力を願いたいと要請しました。
この会議には海軍省からは米内大臣、井上次官以下各局長、主要課長が出席、軍令部からは総長、次長以下が出席しましたが、以上の説明は参列者に相当の衝撃を与えたようでありました。その時、兵備局第2課長浜田祐生大佐(海兵47期)が立って、「海軍戦備情況は、ただいま担当者の説明したとおりです。上層部におかれては、十分考慮然るべきであると思います。」という意味の発言をされました。この時、兵備局長の保科善四郎中将(海兵41期)は色をなして一喝されましたが、その心境はわかりません。しかし、一喝されたことは、今日に至っても忘れることができません。
井上成美海軍次官は兵学校長から海軍次官に着任されて間もない時でありましたが、この戦備報告を聞き、終戦を決意されたものと推察します。
米内大臣も井上次官と同様決意されたと思います。
それから、約2ヶ月後、決行された捷1号作戦において、栗田艦隊の判断と決断が不適切であったためか、敵のレイテ上陸を阻止できなかったことが敗戦を決定的なことにしたのは、識者の知るところであります。
なお、緊急戦備部会は、設置以来この日初めて開催され、以後一度も開催されませんでした。
【捷1号作戦(レイテ海戦)】
先に話したとおり、我が海軍は「絶対国防圏」を死守すべく、あ号作戦を発動しましたが、真に残念ながら大敗を喫しました。他方、アメリカ海軍の損害は航空機百数十機に過ぎず、艦艇は全く無傷でありました。
したがって、米海軍は直ちに、フィリピン攻略、レイテ揚陸作戦を敢行したのであります。わが連合艦隊はこの作戦を阻止すべく、昭和19年10月18日、捷1号作戦を発動しました。
この作戦の目的は唯一つ「栗田艦隊がレイテ湾に突入し、マッカーサー率いる揚陸部隊を撃滅する。」この一点であります。
もし、この作戦に失敗し、米軍によりフィリピンが占領され、南支那海は米軍の制海、制空権下となり、日本は南方からの石油を始め重要資源が途絶し、たとえ艦艇、航空機を温存しても、総てスクラップ同然となり、遠からず日本は鉾を納めざるを得なくなります。
すなわち、本作戦要領の大綱は、次のとおりであります。
1. 第1遊撃部隊、すなわち栗田艦隊は敵の上陸地点、すなわちレイテ湾に突入し、敵の攻略部隊を撃滅する。
2. 機動部隊本隊、すなわち小沢艦隊は、ルソン東方海上に進出し、敵
主力部隊を北方遠く牽制し、栗田艦隊のレイテ突入を容易ならしむ。好機を得て、敗敵を撃滅する。
この作戦において、小沢艦隊は悲惨極まる犠牲を払い、見事に囮作戦に成功し、米海軍猛将ハルゼー指揮の敵機動部隊主力を遠く北方海上に誘導し、栗田艦隊にレイテ突入の絶好の機会を与えられたのであります。
しかし、栗田艦隊はレイテ湾に突入しませんでした。
今一つ、お話したいことは、栗田長官旗下の西村艦隊についてであります。西村司令官は栗田長官より「……10月25日の黎明期に、主力に策応して、スリガオ海峡からタクロバン方面に進撃し、敵の艦艇及び上陸軍を撃破すべし……」との命令を受けます。
そして、レイテ上陸作戦の援護部隊である戦艦6隻、巡洋艦8隻、駆逐艦26隻、並びに潜水艦部隊の敵艦隊に突入し、死に物狂いの海戦を敢行、勇猛に善戦しました。
しかし、西村艦隊は旧式戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦4隻の小艦隊であり、駆逐艦時雨一隻を残し、他は全部沈没するという悲惨な結果に終わりました。
しかし、敵の揚陸作戦支援部隊は西村艦隊との烈しい交戦の結果、弾丸等ほとんど撃ち尽くし、一時栗田艦隊がレイテ湾に近づいた時、米海軍は恐怖につつまれたと戦記に記載されている程、戦闘能力を失っていました。このように西村艦隊は全滅して栗田艦隊に対し、レイテ湾突入の絶好の機会を与えたわけであります。しかし、栗田艦隊はレイテ湾に突入しませんでした。
栗田艦隊は、友軍の非常な犠牲により、レイテ湾突入の好機を与えられながら、決行せず、独自の判断により、レイテ湾突入を中止する旨、連合艦隊司令長官に打電するわけでありますが、連合艦隊長官より、「……天佑を確信し、全軍突入せよ……」との厳令を受けます。しかし、栗田艦隊はレイテ湾に突入しませんでした。いわゆる謎の反転として長い間語り継がれて来ました。
私が昭和53年(財)水交会の会長になったとき、「水交座談会」を開催し、戦時中の先輩諸提督の貴重な経験談を聞くことにしました。その時栗田長官に依頼しましたが、出席されませんでした。代わりに栗田艦隊の小柳参謀長に当時の話を聞いた際、「……友軍からの情報、敵の状況、全く不明であり、もし突入すれば犬死である……」という意味の話がありました。
ネルソン提督は有名な次の言葉を残しています。「……敵情不明の時は、敵艦に横付けせよ……」と。
先に申したとおり、捷1号作戦でマッカーサーの揚陸部隊を撃滅できなければ、東支那海の制空、制海権は米軍の掌握することとなり、南方石油資源は完全に途絶し、艦艇、航空機も総てスクラップ同然となり、多くの指揮官もまた無用となり、遠からず日本は滅びるであろうと申しましたが、栗田艦隊の判断、決断の不適切のため、日本は急速に敗戦へと落ちていくわけです。
もし、捷1号作戦において、先にお話しした絶好の時期に栗田艦隊がレイテ湾に突入し、マッカーサー揚陸部隊を猛攻、これを撃退したならば、皇軍の士気は高揚し、国力も回復し、最後の講和の機会を得たと思いますが、真に残念です。
栗田長官は、その後、海軍教育の中枢というべき海軍兵学校の校長となられますが、私はこの辞令を聞き、真に不思議な思いを覚えました。
昭和20年8月15日、わが国は無条件降伏をしたわけですが、当時海軍兵学校岩国分校の教頭(分校長)の矢牧章少将が栗田校長の指示を得たいと考え、江田島本校を訪問したところ、栗田校長の真に異常な姿に接し、そのまますぐ岩国分校に帰ったという回顧談を水交座談会で話されました。
栗田さんは、戦後一切の面接を断り、沈黙の余生を送られました。史記に「敗軍の将、兵を談ぜず」とありますが、更に「敗軍の将は以って勇を言うべからず」との言葉もあります。栗田さんが静かに当時の心境をお話しになれば、後世のため貴重な訓となったでありましょう。
思うに本作戦ほど「国家の興亡」「戦の勝敗」を決定する作戦は他にありません。しかるに何故に連合艦隊司令長官は自ら陣頭に立たれなかったのでしょうか。何故でしょうか。
【北号作戦と航空揮発油の還送】
北号作戦は捷一号作戦失敗後、昭和20年1月発動の艦艇によるシンガポールより内地向けの航空揮発油の還送作戦であり、これを知る人は絶無と言っても過言ではありません。
先にお話したとおり、19年10月22日より25日に至るレイテ作戦において、千載一遇の好機を得ながら栗田艦隊はその使命を放棄し、作戦目的を達成することができず、作戦は終結しました。
この作戦で残存した小沢中将旗下の第四航空戦隊、日向、伊勢(両艦とも大改造して空母)は一旦呉に帰投、艦艇整備後、作戦用物資を満載、比島守備の皇軍に渡し、シンガポールに入港しました。
この改装空母による南方揮発油の内地還送計画実施を時の軍令部第一部長富岡定俊少将に協議、実行されたのがこの北号作戦です。この石油還送に参加した艦艇は、シンガポール在泊の伊勢、日向、大淀、他駆逐艦5
隻であり、その内石油を還送できたのは、伊勢、日向であり、その数量は、航空揮発油約2,000キロトンでありました。
この艦隊が昭南(シンガポール)を出航したのは昭和20年2月10日でありますが、2月20日無事呉に入港しました。
この最後の石油輸送作戦が見事成功したのは、他ならぬ硫黄島守備隊2万有余の英霊の加護によるものと信じます。
硫黄島は東京より約1,200キロの地点にある太平洋の孤島でありますが、マリアナ海戦、レイテ海戦後、栗林陸軍中将指揮の約2万3千(内、市丸海軍少将指揮の陸戦部隊約7,500)の兵力をもって敵の来襲に備えていたのであります。
この全く無援の孤島に対し、米軍は膨大な海空陸の兵力をもって昭和20年2月中旬来襲し、寸土を争う必死の攻防を繰り返すこと約1ヵ月有余、ついに米軍の占領するところとなりました。この攻防において、我が軍は、2万数千の戦死者を出し、米軍もまた、1万7千有余の戦死傷者を出しました。
北号作戦はこの激戦中行われましたが、その成功は一にかかって皇軍2万数千有余の英霊の加護によるものであります。
レイテ作戦失敗後、我が海軍艦艇用重油は、ほとんど備蓄零になりましたが、重油地下タンク等のタンク底重油が約20万トンあり、なお2〜3回の海上作戦可能と判断しました。
しかしながら、航空揮発油については、若干不安でありましたが、北号作戦により、新たに約2,000トンの航揮を確保できたので、新燃料戦備計画(松根油、アルコール燃料計画)が軌道に乗るまでの間、統帥部の要望に応え得る自信を得ました。
当時燃料戦備責任者として硫黄島の英霊に対し心から感謝した次第であります。
最後に特に申し上げたいことがあります。
それは、平成6年天皇皇后両陛下が太平洋戦争中最も壮絶を極めた硫黄島に行幸啓遊ばされたのでありますが、その時の御製を謹んでお伝えします。
精魂を込め戦いし人未だ 地下に眠りて島は悲しき
戦火に焼かれし島に五十年も 主なき蓖麻は生い茂りゐぬ
【特攻作戦について】
特攻作戦が提案されたのは昭和18年であります。ミッドウエー作戦に予想だにしなかった惨敗を喫し、続いてソロモン方面において烈しい消耗戦を繰り返し、しかも不幸なことに昭和18年4月山本連合艦隊司令長官が戦死されました。当時、海軍は緒戦のハワイ作戦の大勝に酔い、ミッドウエー海戦の大敗にもかかわらず、なお、驕りの心があり、米軍の手強さを十分認識していなかったように思われました。したがって、このまま行けば、日本は危ういと痛感されたためでありましょうか、昭和18年6月11日開催の軍令部の「戦備考査部会」で、時の軍令部第2部長黒島亀人大佐が「必死」「必殺」の戦備を提案されました。これが、我が海軍特攻隊創設の契機であります。
しかし、この提案は、直ちに採用されませんでしたが、昭和19年6月今次大戦に際し御前会議において「絶対国防圏」と決定されたマリアナ諸島が、あ号作戦及びマリアナ海戦の惨敗により、敵の手中に落ちた結果、日本は重大な危機に直面するこことなり、その結果、昭和19年9月13日海軍特攻部が新設され、大森仙太郎中将(海兵41期)が初代特攻部長に就任されました。
時の第1航空艦隊司令長官は、寺岡謹平中将であり、10月20日大西滝次郎中将が就任されました。
特攻部創設以来、特攻隊は数々の戦果を挙げましたが、犠牲者も多く、陸海軍合せて約4千7百有余名に及びました。
そのうち、海軍関係者は3,056名であります。その内訳は、
予 科 練 出 身 者 : 約3分の2
予 備 学 生 出 身 者 : 約3分の1
海軍兵学校・機関学校卒業者 : 約百数十名
戦後、特攻に関し、様々な批判がありました。しかし、我々は、否、私は唯々英霊の御冥福をお祈り申し上げるのみです。
最後に付記したいことは、特攻最初の提案者黒島大佐(後の少将)について若干の批判がありますが、他に勝るとも劣らぬ憂国の士であったと思います。同氏は、昭和20年以後の燃料戦備を憂い、2 〜 3回わざわざ私のところに来て熱心に意見交換をしました。軍令部兵科参謀の絶対にしないことであります。
【天号作戦を回想す】
昭和19年10月のレイテ作戦に敗退、翌20年2月の硫黄島陥落後、日本の「絶対国防圏」を突破した米軍の次の上陸作戦はどこであるかを検討の結果、我が統帥部は次のとおり予想しました。
1. 天一号作戦 : 敵が沖縄方面に進攻した場合
2. 天二号作戦 : 敵が台湾方面に進攻した場合
3. 天三号作戦 : 敵が南支那海沿岸に進攻した場合
4. 天四号作戦 : 敵が仏領印度支那沿岸に進攻した場合
以上の内、最も可能性が高いのは沖縄方面であると予想し、陸海両軍は同島防衛に全力を尽くしました。
そして、敵は同年4月1日、沖縄揚陸作戦を開始します。その兵力は、海上部隊約300隻、上陸用舟艇約1,400隻、航空機1.200機、上陸部隊約20万という膨大な戦闘部隊でした。
これに対する我が沖縄防衛部隊は、牛島陸軍中将旗下の第32軍と大田海軍少将率いる海軍陸戦隊でありました。
この時、我が連合艦隊豊田副武司令長官は神重徳作戦参謀策定のいわゆる海上特攻作戦を決定します。すなわち、伊藤整一中将統率の第2艦隊戦艦大和、軽巡洋艦矢矧及び第2水雷戦隊8隻をもって、あの膨大な敵戦闘部隊を襲撃する作戦であります。勿論、万が一にも成功しない作戦であります。
伊藤2艦隊長官は、6,500名の将兵を犬死させるのは、真に忍びないという考えで、連合艦隊司令長官の命により第2艦隊長官を訪問した草鹿参謀長に対し、今回の作戦目的は何かと質問します。すると、草鹿参謀長は帝国海軍の最後の水上特攻であると答えたそうです。
某駆逐艦長が、海軍最後の特攻ならば、連合艦隊司令長官自ら先頭に立つべきではないかと詰問します。すると、参謀長は沈黙したまま何等返答しなかったそうです。そして、最後に伊藤長官に一億総特攻のさきがけになってもらいたいと云ったとの話です。
この作戦は水上特攻であるから、搭載燃料は片道分にすると決定されたのですが、燃料戦備責任者としては作戦がどのように変わるか判らぬ、万が一の場合を考慮し、燃料を満載すべきであると、呉鎮機関参謀に連絡します。すると、機関参謀より次のような連絡を得ました。
連合艦隊小林儀作機関参謀が機密裡に呉に来られ、呉鎮参謀長以下各関係参謀と協議の結果は、第2艦隊全艦燃料満載のことに決定、この数量1万トンとの報告を得ました。
戦後一般に言われた片道燃料の海上特攻部隊は、実は約1万トンの燃料を満載して出撃しました。もちろん、この作戦は殆ど無為に等しい作戦であり、戦艦大和以下軽巡矢矧、駆逐艦5隻皆撃沈され、残存の駆逐艦3隻が沈没艦艇の多くの将兵を収容して帰還します。この天号作戦は、我が海軍最後の出撃戦であり、伝統を誇る無敵艦隊と称された帝国海軍は完全に消え去ったのであります。悲痛の極みでありました。
なお、航空機による特攻は、菊水一号より十号まで決行されました。
この沖縄攻防戦は、6月23日牛島司令官の自決をもって終了するのでありますが、約3ヶ月にわたる戦で我が方の損害は、陸上だけで6万6千の将兵、沖縄出身の軍属5万5千、市民9万5千の犠牲者を出しました。
また、航空機は、2,258機(内特攻約1,900)の多きに達しました。米軍も11,400名が戦死し、陸上部隊総司令官バックナー中将も戦死しました。
この作戦は本土決戦に対する時間稼ぎになり、かつ、米軍をして日本本土攻撃を慎重にさせたという大きな効果があったと言えましょう。
【決号作戦に対する燃料戦備】
天号作戦により、一時敵の侵攻を防止しましたが、沖縄失陥後はいよいよ本土上陸を決行することが明白となりました。
これより先、我が陸海軍統帥部は、敵の本土来襲に備え、昭和20年初期、次のような決戦作戦を計画、これを決号作戦と呼称しました。
すなわち、
第1号作戦 : 千島、北海道
第2号作戦 : 東北地方
第3号作戦 : 関東地方
第4号作戦 : 東海地方
第5号作戦 : 近畿地方
第6号作戦 : 九州地方
第7号作戦 : 朝鮮地方
これに対する燃料戦備は、あ号作戦発動の昭和19年6月国内燃料持久態勢確立のため、「新燃料戦備」を策定しました。その詳細は省略しますが、ドイツ駐在武官小島少将の情報に基づく松根油の大増産であり、今一つは全国に散在する約4千軒の酒造家を動員することによるアルコール燃料の大増産計画であります。
前者は時の山林局長鈴木一氏(鈴木貫太郎大将の長男)を中心とする全国農業界の動員によるものであり、後者は大蔵省主税局長池田勇人氏を中心とする全国酒造組合の総動員によるものであります。
そして、敵の空襲に耐え得る地下または掩蓋工場とし、小型蒸留生成設備を設計、敵来攻の予想される沿岸後方地区に建設整備する計画で進めました。
この計画は、昭和20年10月以降、各作戦部隊の要求に応じ得るものでありました。この新燃料戦備計画に関する様々なエピソードがありますが、これは省略することとし、本土決戦に備えての新燃料戦備計画は順調に進み、かつ、松根油より生産した航空揮発油の実用実験は、ほぼ完了状況下に終戦を迎えました。
【燃料の統合と陸海軍の統合】
船舶、航空の戦闘力の第一は行動力であります。
あの日露開戦において、時の海軍大臣山本権兵衛大将は、このことを熟知し、いかに対処するかにつき、誰よりも燃料問題に深い関心を寄せていました。
すなわち、日清戦争において、日本海軍は、和炭を使用し勇ましい黒煙は盛んであるが艦船の速力は不十分であることを案じ、当時世界で艦船用燃料として最高の燃料である英国産カージフ炭を購入、万全を期したのであります。
今次大戦に於いては、開戦時、我が海軍は先に話したとおり、開戦用として約1年半の燃料を保有し、かつ南方方面戦闘において陸海協力、インドネシアその他の油田を確保し、不敗の態勢を確立いたしました。
しかしながら、昭和17年4月のミッドウエー海戦以後、連戦連敗で燃料の所要量も膨大でありましたが、よくこれに即応できたのも、一に南方油田地帯の確保によるものであります。
捷一号作戦敗退後、南方からの燃料還送不可能となりましたが、燃料戦備責任者として、これより先半年前より、日本国内資源を活用する「新燃料戦備計画」(すなわち、松根油、アルコール燃料計画)を策定、全国民が中心となり、これに軍、官が協力して作戦上必要とする所要燃料の生産確保を計りました。
最後に話しておきたいことは、燃料の陸海統合の問題です。
昭和20年3月頃、軍務局藤田正路局員(海兵52期、中佐)より、「陸海軍燃料の統合という問題が起きたらどうするか。私見でよいかから話してもらいたい」との相談がありました。
これに対し、私は次のように述べました。
「陸海軍燃料統合が上層部で決定すればそれに従う。ただし、あらゆる面から見て、海軍が優れているので『海主、陸従』の形での統合でなければ国益にならぬ」と回答しました。
この問題が何故に起きたかと言えば、本土決戦が予想され、陸海軍統合問題が、陸軍側で論議されました。
その理由の根元は、昭和20年2月の硫黄島の攻防において、陸軍の指揮官栗林忠道中将が市丸利之助海軍少将の率いる陸戦隊の戦闘を極めて低く評価し、海軍の陸戦隊は陸軍に編入すべきことを強く中央に意見具申したのが発端のようです。この統合問題は、朝香宮より天皇に伝わり、天皇の御意志の如く陸軍首脳に伝わり、陸海軍統合、燃料統合の話となったものと思われます。
この陸海軍統合問題は、極めて重要であり、天皇陛下は、陸海軍大臣に意見を求められます。陸軍大臣は賛成、海軍大臣は反対の意見を述べられ、この御下問により、陸海統合は立ち消えとなります。
当時、米内さんは終戦を考えておられ、もし、陸海統合すれば国策は陸の思うままになり、本土決戦は必至と考えられたと思います。
もし、本土決戦となれば、日本は亡びる。日本存続のためには、本土決戦はやってはいけないという深慮により、米内さんは統合に反対されたと思います。神助と言えましょう。
燃料統合問題を思うたびに米内さんの偉大さを痛感します。
【日本海軍は対米戦争でいかに負けたか】
先の大東亜戦争は対米戦争と言っても過言ではありません。しかしながら、残念ながら惨敗しました。すなわち
1. 艦 艇 損 失 : 約600隻 約200万トン
2. 航 空 機 損 失 : 約2万6千機
3. 海軍関係戦死者 : 約47万4千人
(軍人約33万8千、軍属約13万5千)
これに対し、米軍の艦船、航空機、人員の損失は、日本海軍の1割にも
達せず、戦記等より推察するに6 〜 7%程度かと思われます。
このように、日米間の損失が天地の差であれば、いかに日本の資源や燃料が無限にあっても、絶対に勝つことはできないでしょう。
しからば、日本海軍は何故負けたのかと言えば、様々な意見があります。私が当時聞いた敗因を紹介すると次のとおりです。
1. 米国の軍事評論家その他
(1) 日本海軍は戦闘を知って戦争を知らぬ。
(2) 日本海軍は情報を軽視した。
(3) 日本海軍は海戦時友軍間の連携が適切でなかった。
2.元連合艦隊参謀等の終戦後の所見
(1) 日本海軍首脳人事が適切でなかった。
(2) 日本海軍は驕り症候群であった。
(3) 日本海軍は海戦については良く研究したが、戦略の研究は疎かで
あった。太平洋方面諸島の防備強化を怠ったことはその一例。
(4) 日本海軍は、ハワイ海戦で海戦の中心は航空機であることを実証しながら、大艦巨砲主義からの転換が遅れた。米海軍は航空機時代を敏感にキャッチし、各海戦を有利に展開した。
概ね以上のとおりであります。
私個人としては、日本海軍がなぜ米海軍に負けたかと言えば、それは教育に起因するのではないかと思います。
敗戦後間もない昭和26年自衛隊創設準備のため設けられた「Y委員会」において、防衛大学校をどのような大学にするかという設問がありました。これに対し、一人として陸士的、または海兵的学校にするという意見は全くありませんでした。
なぜならば、敗戦後間もない時であり、敗戦の原因は陸士、海兵にあるという厳しい反省があったからであります。海兵出身の鳥巣氏や千早氏はその著書に「有史以来初めて被占領国となり、米国の庇護の下に辛うじて国民の生命を繋ぐことになる。これは一体誰の罪か。海軍の罪である。」と申しています。
近頃、終戦時尉官級以下の人が「○○精神、○○精神」と申しているやに聞いていますが、果たしてどうでしょうか。
井上成美大将は、昭和11年、時の海軍大臣永野修身大将より、兵科、機関科問題を解決するにはどうしたらよいか研究、報告せよと命ぜられ、次のとおり報告されています。
乃ち、「兵学校をやめ、全部機関学校へ入れて教育すべきであると思う。但し、死について、機関学校は『従容として死に就く』と教え、兵学校は『どんな死に様でも良い。最後まで職務を尽くせ』と教えている。これは兵学校の方が良いと思う。」
以上のとおり答申しています。
(註)詳細は『最後の海軍大将の唯一の遺稿』篠原宏氏(朝日新聞調査研究室主任研究員。)朝日ジャーナルに発表。
要するに、海軍の戦力は、驕り症候群でなく、地道な優れた技術が総てと言っても過言ではなく、科学的、合理的な教育を行うべきであるとの思考であります。
したがって防大教育に就いて、初代校長槙氏は、当時横須賀在住の井上大将の意見、その他により将来予想される科学の進歩も考え、技術的、合理的、誠実な工科大学に決定されたと聞いています。
皆さん方は陸士、海兵と全く違う校風、もちろん良いところは是非取り入れ、新しい防大教育、海上自衛隊精神を持つ国家防衛の任に当たられておられるでしょう。
昭和53年海軍兵学校連合総会が品川のパシフィックホテルで開催された時、当時私が(財)水交会会長であったため、招待され、主賓として一言挨拶を依頼されました。
その会場のメインテーブルに高松宮並びに妃殿下がご出席でありましたが、祝辞の中の一部に敢えて次のようなことを述べました。
「……先の太平洋戦争でアメリカ海軍が大勝を博したのは、アナポリス海軍兵学校に起因すると言っても誰も反対はないでありましょう……」と。
そして、最後に海兵卒業の諸先輩や、二年現役、予科練の人達が、終戦以来国家再建のために努力しておられることを称えました。
私の挨拶後、小島秀雄海軍少将(海兵44期)その他2、3の方から握手を求められたことは忘れません。
私は若い時、「明治維新の大業は松下村塾に起因し、ウオーターローの大勝はイートンに起因す」という言葉を教えられました。
ちなみに、ウオーターローの戦でナポレオンを打倒したウェリントン将軍は、英国の名門校イートン出身であります。
「国家の興亡も人にあり、戦の勝敗も又人にあり」という言葉があります。榎本隆一郎中将(海機24期、元国際キリスト教大学理事長)の恩師である、哲学者であり、宗教家であった河村幹雄博士は、
「教育の他に何者もなし」
と言われました。肝に命ずべき訓であると思います。
長い間の御清聴を深謝します。
(終)