お便り、ご質問の部屋

ここは今までにいただいたお便り、ご質問のコーナーです

なおこのご質問に意見がありましたらメールをいただければ幸いです

2000.7/5

初めまして、
知りあいに自衛隊出身者がおりますので、
興味を持ったものです。

すいません。突然の質問で失礼します。
一つお伺いしたことがありましたので、 大変非礼おゆるしください。

旧海軍の軍事拠点だった佐世保の針尾鉄塔が 払い下げ対象となっていると小耳に挟みました。
これは本当なのでしょうか。
誰かご存知でしたら、教えていただけると幸いです。
Rさん


2000.7/2

こんにちわ。
急だけど、僕はこのホームぺージの志賀淑雄さんの所に出てた杉田庄一さんの列機だった笠井智一の孫なんです。
一昨年の零戦搭乗員会にいって志賀さんと少し話した事があったので、志賀さんの事が書いてあるホームページ見つけた時正直びっくりしました。
よんでみると、僕にはすこし長かったけどおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に見ました。
おじいちゃんは、「ほーう、すごいなあ。」とびっくりしてました。
おじいちゃんは今でも志賀さんの事を飛行長と読んでいます。
この前、「零戦 最後の証言」の取材で神立さんという人が来ました。
僕もおじいちゃんの話を聞こうと着いて行くと僕も本に載せてもらいました。
また見て下さいね。
これからも見て行きたいのでがんばってください。

Mさん


2000.6/25

教えて下さい。

山本五十六聨合艦隊司令長官一行の待ち伏せに繋がった米軍側の暗号解読について 1967年にDavid Kahn著「The Codebreakers」(日本語版「暗号戦争」秦 郁彦訳 早川書房 昭和43年)が日本に紹介されて以降定着してしまった「四月一日に乱数表が 更新されたJN-25で書かれた NTF131755 が解読された。」とする説は 情報公開法の 施行で 実際の解読電報が公表されるに至り「間違」である事がはっきりしましたが では 解読された電報はJN-25ではなくて どの暗号書で書かれたものか検証したい のです。
そこで 以下の事をご存知の方は 是非 教えて下さい。

昭和十八年四月当時;
1. 第八通信隊 (8cg) と 第一根拠地隊 (1Bg) 、第二十六航空戦隊 (26Sf)、第十一 航空戦隊 (11Sf)との間で使用されていた戦略暗号書は「海軍暗號書 呂」(ローラ三) でしょうか 又は「海軍暗號書 波」(ハーラ一)でしょうか、それとも(ロラ三)と(ハラ一) 両方併用されてゐたものでしょうか?
通常 三カ所以上の宛先に同文電報を発信する場合、宛先別に個別に発信したもので しょうか、それとも 放送系電波で発信したものでしょうか?

2. バラレ守備隊長 (K6lg) は戦略暗号書を持たず 8cgとの間では 戦術暗号書が 使われていたと推測するのですが、使用暗号書は?
(私の調査では「海軍暗號書 多」である可能性が絶大なのですが。) 3. 第九五八海軍航空隊 (958fg) は 戦略暗号書を所持していたのでしょうか?

以上 関連情報も含めて ご教示頂ければ幸いです。

鎌倉市   Wさん


2000.6/23

こんにちは、すまさん。ドイツのNです。
集いは如何でしたか?
私はとある日本の軍艦の生涯について読んでいて、レイテ沖海戦にたどり着いたとき、ふとまた日本の鈴木のことを思い出し、日本の彼の自宅に電話して色々と話しを聞いてみました。
今回はそれを中心に話してみたいと思います。

栗田艦隊の謎の反転について:
鈴木曰く、歴史研究家の間で栗田はデング熱に侵されていた健康状態で謝った判断を下したという意見は沢山あると思うが、あの時反転していて良かったと思う。
事実レイテ湾突入隊旗艦の鳥海をはじめ、多くは沈められている。
あれがいわゆる米軍のレーダー射撃というものだろう。
物凄かった
。もし我々(大和をはじめ他の艦)もレイテ湾に突入していたら今日の俺の命もなかったろう。
と鈴木は当時を回想していました。

99艦爆の誤爆:
のべ10回程にわたる米軍の空爆が終わったころ、ようやく友軍の零戦、99艦爆約60機が見え、艦上では歓喜溢れたたと私の読んだ本にありました。
そしてそのうちの何機かの99艦爆が大和などの味方の艦隊を敵と見違えて誤爆をしたとあります。
米軍機だったとの説もありますが、その時のことを鈴木に聞いてみました。
中里:おじいちゃん、99艦爆といえば固定脚で、見ればわかるんじゃないの?
ミッドウェーの米軍の実写見たことあるけど、97艦攻と99艦爆かはっきりわかるよ。雷撃と急降下爆撃の進入角度だってゼンゼン違うし。
鈴木:いや、わからんかった。愛宕がやられて(鈴木は本来愛宕の右舷前方高角砲の伝令兵)から大和の右舷前方の25mm3連装機関砲の弾こめの手伝いをやっていたが、射手も誰もかれも命令のままやっていたのと皆殺気立って必死だったので、とても敵機の急降下爆撃か友軍の誤爆かを確認していられなかったよ。

ということでした。鈴木はレイテ沖海戦以外にもブーゲンビル、マリアナにも参加していたので(愛宕の右舷前方高角砲の伝令兵)、大凰の最後などについて聞いてみたいと思います。
それから今回書けなかった高角砲、25mm3連装機関砲の撃ち方についても紹介します。
余談ですが、近々私の妻が出産を予定している為、日本にいる私の母親がわざわざドイツまで駆けつけて来てくれます。その時に鈴木は私に「あ号作戦」の本を母に渡し持たせると約束してくれました。
これを読んで、また鈴木と話しをし、皆さんに紹介します。
またまた余談ですが、私が砂漠のキツネことロンメルの息子に手紙を書くチャンスがあり、みごと返事を頂きました。
そのことを鈴木に話したら「そりゃまた歴史の生き証人から返事を頂いてよかったね。」と大変に喜んでくれました。
そんな訳で今回は以上です。八杉さんに宜敷くお伝え下さい。

ドイツのNより。


2000.6/18

貴ホームページ拝見しましてメールしております。
実家が横須賀との事あって添付いたしましたこのような絵葉書が40枚程度あり ます。白黒の単に船が写っている(進水記念が多いようです)物、そして御覧の ようなカラフルな物と眺めているだけでも楽しい次第です。
もし、これらの物が珍しく、かつ、そちらの御研究にお役立てできるのでしたら と今度、1枚1枚、スキャンしましてお送りしたいと思います。
恐縮ですが現物 は一応、オヤジの物なのでお渡しするのは御勘弁下さい。
ではではまた。御活躍お祈りしております。

東京都 Rさん


2000.6/4

初めまして、私も子供の頃からの大和ファンです。
それで最近大和の模型をしっ かり作ろうといろいろと資料を捜してたのですが、沖縄特攻時の大和の写真はど れも不鮮明で、大和研究家の方たちの意見もバラバラでいつも、なぜ実際に大和 に乗艦されていて生き残っている人たちがいるのになぜそこまで形が解らないの か、不思議でした。
そこでインターネットで検索していて大和乗組員 八杉康夫 氏の項目を発見しました。
そこで、できれば私の疑問に思っていることをお聞き してほしいのです。
(1)艦尾に設けられた機銃座の形
(2)第二主砲搭上の機銃のブルワークの形・六角形で手すりのみでしょうか?
(3)艦底色の色・緑だったという説もあるのですが・・・
(4)主砲搭の背面の出入り口の形状
等をお聞きできれば幸いなのですが、ぜひともおねがいします。

Uさん


2000.6/2

お元気でしょうか、R33です。
先日はありがとうございました!
ところでこのたび祖父の元を訪ねる機会がありましたので、 すまさんのHPのあの鳳翔の勇姿を印字して 祖父に見せてあげることができました!
55年間記憶の片隅に埋もれていた自分の船に 再会した祖父は病床にありながらも大変な喜びようでした。
祖父は2門の8センチ高角砲のうちの1門を担当していた、 ということです。自分の船というのはどういう気分か? と尋ねると「そりゃー、いい気分だョ」と目を細めていました。
祖父は「あんな小さくて古い船がよく出てきた」と なんどもいうので「これが世界で最初の空母なんだって」 というと知らなかったのでしょう、コシを抜かすほど驚いていました。
すまさんのおかげで祖父の再晩年にこれ以上にない孝行ができました。
ホントにありがとうございました!
それから偵察機「彩雲」の記事にはびっくりしました。
僕は松山に住んでいて、以前あれを田んぼの中に見つけて なんだろうなぁ、と思っていたのです。
偶然にも同じところで 疑問が解けました!
最近東京に行ったときに偶然靖国神社でとった写真、 おもしろいかわかりませんが添付します。
38は大和と三笠の砲弾です。
39は戦艦陸奥の大砲です。
40は沈没した船の所在を示す碑です。
ありがとうございました!
ますますのご健勝を!

R33さん


2000.5/29

こんにちは。

はじめまして。貴HPを拝見させていただきました。
海軍には興味があり、いろいろなHPをこれから探そうと していた矢先に貴HPを最初に発見した次第です。
質問といいますか、お問い合わせの部類かも知れないのですが 「海軍兵学校」と「海軍大学」に関する情報をとても知りたいのですが 参考文献になりそうな書籍等を、ご存知であれば是非とも お教えくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

初対面(初メール)で失礼な事とは承知しておりますが、よろしく お願い致します。

匿名でのメールも、お許しください


2000.5/22

私はニューヨークに住む日系1世のアメリカ人です。
出身は名古屋です。
私の親戚である帝国海軍第六艦隊司令をしていた三輪中将についてできるだけ調べたいのですが、防衛庁に聞くのが 一番なのでしょうか?

ニューヨークのMさん


2000.5/20

拝啓

私は英国の大学院に在学している学生です。
実は会社の経営に関して研究をしているうちに会社経営における戦略と軍隊の戦略というのは共通点がかなり多いのではという問題意識をもつにいたりました。
現にソニーの盛田氏は海軍技術中尉だったと聞き及んでおりますしそれ以外にも多数いらっしゃるような気がするのです。

そこでもし経営者で全身が軍人というような情報をお持ちでしたならばお教え願いたいのですが。

敬具


2000.5/18

こんにちは、ドイツのNです。

この度は貴HPに掲示頂きありがとうございました。
さて、親戚の元水兵のおじいさん(以後「鈴木」)から下記のメッセージを八杉さん宛てに頂きましたので、ご紹介致します。
それから、国際電話での話しなので、限界があります。武蔵の最後の話しも聞きたかったのですが、疲れたのか、止めになってしまいました。
すまさん、よろしかったら、群馬県の沼田の奥まで取材に行って頂けないでしょうか。
ご興味があれば、鈴木に許可を取って、連絡先をお知らせ致します。
鈴木の生きているうちに沢山はなしを聞いておきたいのですが、何せ地球の反対側のドイツなもんで、数年に一度しか日本に行くチャンスがありません。是非、鈴木の元気なうちに誰かに話しを聞いて記録を取っておいてもらいたいものです。
長くなりましたが、下記を八杉様にご転送致し度存知ます。
前略、八杉様。ドイツのNです。体調は如何ですか?
貴殿のメールを親戚のおじいさん(鈴木)に転送したところ、大変に懐かしく、歓んでくれました。
貴殿のメッセージがきっと鈴木のより一層の元気の活力になると思います。
鈴木を代弁して感謝致します。
さて、鈴木は貴殿の話しの正確さに非常に驚いておりました。
しかし、鈴木は大和に移ってから、ブルネイではなく、東シナ海を通って、呉で大和を下りたそうです。
その後、愛宕の乗組員は長門に乗れとの命令が発令され、大発が向かえに来て、横須賀で長門に乗ったそうです。
しかし、そのころの日本には制空権もなく、艦隊が航行出来る状態ではなかったので、高角砲員、機銃員以外は陸に上がり、鈴木は内地を転々と転勤し、終戦を迎えたそうです。

あと、私が本で読んだ武蔵の最後と鈴木から一度聞いた話しではちょと矛盾しています。
もしご存知でしたら教えて頂けないでしょうか。
鈴木曰く、武蔵は沈没を避ける為に浅瀬に乗り上げようとした。
最後にはスクリューがカラ回りして身動きが取れなくなり、見ていて気の毒だった。でも戦艦武蔵の本(文庫本)にはそれらしいことは一切書かれていませんでした。
そんな訳で、もし教えて頂ければ幸甚です。
では今後もお体を大切に。

以上


2000.5/17

どうも、はじめまして。

名前は失礼でなければR33と名乗らせてください。
こちらのジャンルは基本的に門外漢です。
しかし、私の尊敬してやまない祖父がいて、 最近では青息吐息なのですが 戦時中ホウショウという船に乗っていた、というのです。
それでホウショウで検索してここに伺った次第です。 HPで見ると鳳翔という空母がおおきく出ていますが、 あれなんですかねぇ?
祖父の話では広島沖できのこ雲を見、 船には植樹してあたかも島のようにしてカモフラージュしていた、 というのですが。
もしお気づきのことがあれば
メールで知らせていただければ幸です。
いきなりぶしつけで申し訳ありません。

ますますのご健勝を


2000.5/9

こんばんは。軍艦行進曲初演百周年記念演奏会「軍艦百年」の実行委員会で、広報担 当をしておりました、小川寛大と申すものです。

「軍歌百年」は去る四月三十日に東京都墨田区の曳舟文化センターにて開催され、大 した混乱も無く無事終了致しました。
内容的には問題点も多々指摘され、とても「大 成功」とは言い得ない結果となりましたが、御参加頂いた方々にも、軍歌を文化的音 楽として捉えようとする意図は十分に理解していただいたようで、それについては十 分な成果があったと認識しています。
当方といたしましては、まだ以降に明治軍歌演奏会「明治の響」(平成十四年開催予 定)や、日露講和締結百周年記念演奏会「日露百年(仮称)」(平成十七年開催予 定)の開催を予定しておりまして、今回の事は良き勉強となったと思い、緊褌一番、 次なる目標に向かって邁進しつつあるところでございます。
また、今回の「軍艦百 年」は、夏ごろにCD化を予定しておりまして、今回御賛同頂きました貴頁に対し、さ さやかなお礼としてそのCDをプレゼントさせていただきたいと考えております。
CDが 完成いたしましたらまたメール差し上げたくおもいますので、つきましてはその際に 住所など御教え頂ければ幸甚な次第です。

季節の変わり目でございますので、くれぐれも御自愛の程お祈り致します。
それで は。
小川寛大


2000.5/6

Tです。

私のメールを貴HPに掲載していただき恐縮です。
ところで、私の祖父(父の親父ですが)は昭和53年に83歳 で死去しましたが、戦前は終戦の年まで呉の海軍工廠に30年近く 勤務しておりました。
第1次大戦中は海軍の駆逐艦水兵として地中海 まで行っております。
第1次大戦の戦史の中では日本は連合国の一員 でした。
ドイツのUボートから連合国輸送船団護衛のため、日本海軍も 地中海に艦隊を派遣しています。その派遣艦隊の一員でした。
その後、 呉海軍工廠の工員として軍艦建造に関わるようになりましたが、戦艦 大和の建造にも従事しています。
「すごいバケモノをつくっとる。だれにも 言うな」と祖父が小声で語っていたとは父の思い出話しです。
呉の父の 実家は昭和20年3月の呉空襲の際にすべて全焼してしまいました。
あと父の大和の思い出は沖合いを大和がスピードを出して航行していくと 大きな波がそのあとに岸辺に打ち寄せること。
また、戦闘機乗りになって からは何度かその上空を飛んでその大きさにいつも感心していたとか。

福岡のT


2000.5/3

はじめまして。
福岡のTといいます。42歳です。
志賀淑御雄元海軍少佐訪問日記を拝見させていただきました。
私の父も343空701飛行隊に所属しておりました。
343空は当時の海軍戦闘機乗りの生え抜きを集めて結成され ましたが、父のように飛練卒業と同時に配属されたいわゆる ひよっこ搭乗員(予科練特乙1期)も少なくなかったそうです。
父の同期生で戦闘機に配属されたのは13人ほどで、そのほとん どが343空に配属されたといいます。
昭和20年3月の呉空襲の際 の松山上空の邀撃戦は地上待機組で空戦には参加しておりません。
その日は雲が多く、また雲が低かったので、機銃弾の補給、被弾 して着陸しようとした隙をねらわれて撃墜された紫電改もありました。
父の同期生もその中に含まれています。
その後、鹿屋、大村と移動して、終戦は大村で迎えています。
部隊 解散後すぐに帰郷(福岡市)しましたが、またすぐに部隊復帰を命じ られ、「無期休暇」の命令の下、同僚の搭乗員と一緒に鹿児島の農村 地帯に隠れることを命じられたといいます。
そのときのいきさつは記憶 にないのか、関係当事者がまだ生きているから云々とはっきり語ろう としません父は。
最近読んだ、光人社発刊の零戦最後の証言(神立 尚紀著)に紹介されている皇統護持活動を読んで、これに関係している のかと思いましたが、当時飛行時間500時間足らずの二等飛行兵曹 (ポツダム一飛曹)がそういう活動に加えてもらえるはずもなし。
343空に関してはこれまでいろいろ紹介されています。そのほとんどが 将校だった方かベテランパイロットだった方々のものばかりです。
いつも4番機の位地にいた父、当時20歳でした。
いわゆる下っ端搭乗員 の一人だった父の目から見た343空はどんな部隊だったのか。
それを テーマに父の記録を残そうと思っています。
343空誕生から20年10月 大村から横須賀へ紫電改を空輸するその日まで部隊にとどまった父は 戦闘機乗りだったこと、紫電改に乗っていたことこを今も誇りにしています。
戦後は戦友会に関係する会合には一度も出席したことがありません。
同期生にも一度も会っておりません。
ちなみに終戦まで生き残った同期生 は父を含めて3人です。
私自身は中学生のころから丸などの雑誌を読んでいたので、343空の集まり があるらしいことは知っていました。
父のもそういう話はしたのですが、興味 を示しませんでした。今から思えば、上官クラスと下士官クラスの終戦当時 の部隊のごたごたの中で、何かあったのかもしれないというのが最近、前述 の本を読んだりして感じていることがらです。
さて、長々と書いてしまいました。すみません
。ところで、あつかましいお願い で申し訳ないのですが、343空の戦闘詳報等の資料はどこへ行けば手に入るか 志賀さんのお聞き願えないでしょうか?
もし、父の戦闘参加記録がわかれば 父の当時の記憶も思い出しやすそうなので、戦後ずっと会っていない同期生 の行方がわかればと思っております。

福岡市 Tさん


2000.4/13

ドイツのNです。
すまさん、ご都合の良い時に下記を八杉さんに転送して頂ければ幸甚です。

すまさん、八杉さん、こんにちは。歴史の生き証人、八杉さんからの転送ありがとうございました。
私宛ての直接のメッセージにはグッと来る、何とも表現しがたい感動がありました。この感動には一生感謝致します。私には本を読むという能動的なことしか出来ませんが、生き証人から私宛てにメッセージを頂くなんて。。。私は夏に初めて子供が産まれます(私、日本人と妻マケドニア人のハーフです)が、戦争の悲惨さを言って聞かせます。
この間、ベルギー国境にあるアーヘンという町の日系企業にお邪魔した。アーヘンは第二次大戦の激戦地であったことがきっかけで、日本人所長さんから、こんな話しを聞きました。
所長さんのお父さんは中国で元陸軍気象班とかいういわゆる爆撃前の偵察という危険な任務に就いていらっしゃったそうです。
敵機に撃たれた傷痕が今でも足の付け根にあるそうです。
ある日、空ではなく陸上で部下を連れて行軍訓練をされたそうです。
途中お腹が空いてきたので、部下達を解散させ、自分と同僚?はうどん屋に入ったそうです。
食べ終わって店から出るとたまたま司令官、上官?の車が通りかかり、「お前ら何やってんだ!」と大目玉をくらい、一階級下げられたそうです。しかしこの事件が後々彼ら2人の命を救うことになったのです。
実はこの出来事の後、日本は連合軍に宣戦布告し南方に南方に進出されたのです。
ご存知の通り沢山の方々が南方で無くなられました。所長さんのお父さんは階級が下がった為に南方には派遣されず大陸で終戦を迎えられたそうです。
所長さんのお父さん曰く「これも、あのうどんのお陰。」そして所長さんに言われたそうです。
「人生何が幸いするかわからない、だからせいぜい好きな事をやりなさい。」
この話しの聞いて私の人生観がまた変りました。私は戦争は本でしかしりませんが、人生の障壁には何度もぶつかりました。しかし、所長さんの話しを聞いてから、もう、くよくよするのは止めました。
八杉さん、メールを本当にありがとうございました。
もしよろしければ又何かエピソードをお聞かせ頂ければ幸いです。
では、体に気を付けて。
地球の反対側のドイツで祈ってます。
以上

ドイツのNさん


2000.3/10

はじめまして。
神奈川県横須賀市在住の仮称Gと申します。
住んでいる土地柄か、海軍には幼少の頃より多大な興味が有りました。

本日お便り申し上げたのは、先日たまたま本サイトを発見し、拝見させて 頂いて、その品の良さと質の高さに感激した事です。
特に、「海軍士官はスマートであれ。」
(司馬遼太郎氏:著「街道を行く〜三浦半島編」から引用)という雰囲気が サイトに漂い、作者の海軍への思いが伝わって来るようです。

今後もこのサイトが整備・拡張されてゆくとを期待しております。

つたない文章ながら感謝とご挨拶まで。
 以上

横須賀市のGさん


2000.3/9

八杉さん、みなさん、こんにちは。
私はドイツに住むNといいます。
実は故郷の群馬県の親戚(私の従兄弟のおじいさん)が愛宕が沈められてからひととき大和に乗っていたそうです。
最後の特攻の時には乗ってませんでしたが。
名前は鈴木???。前方の機銃の弾混めをやっていたそうです。
数年に一度日本を訪ねるたびに、貴重な体験談を聞いております。
時とともに戦争体験者の生々しい話しが聞けなくなり非常に残念です。
陸海空ともに戦争体験者の話しを読めるサイトはないでしょうか。
もしくはそれらの方々にコンタクトする方法はないでしょうか。
遠いドイツで皆様からのお返事をお持ち申し上げます。

以上
ドイツ在住 Nさん


2000.2/11

私は、特攻隊員の遺書を読み、 涙が出てきました。
祖国防衛、即ち、親、兄弟、親戚などを守るため、 命すら惜しまず、まさしく、大和魂を抱いて散っていった20歳そこそこの、 特攻隊員などをはじめ、戦争に行った人達を、無条件に尊敬します。
戦争に興味を持った今、ひとつ、知りたい事があります。
大日本帝国海軍の編成、部隊名などを詳しく教えて下さい。
どうか、お願いします。

Takaさん


2000.2/8

海軍さんに興味を持つ一人です。

つたない私見ですが、海軍さんは現実主義で、世の中を見通す幹部が多かったように 思います。
先の大戦では陸軍が主導権を持っていたように感じていますが、もし海軍さんに五十 六さんみたいな 人間幅の広い、世界規模で現実を観ることのできる幹部が多くいたなら、あのような 不利な戦争はしなかったと思います。
いま、日本の指導者といわれる人達の中に、世界の指導者が何を目的に、なにを狙っ て外交を展開しているのか分析できる人がいかほどいるのでしょうか?
五十六さん指 導者がいるのなら、日本の外交はもっと迫力のある、世界に通用するものになると思 います。
真の世界の歴史、日本の歴史を知らずに、受験用の教科書的な歴史をベースにした価 値観しか持たない人たちが外交をするなら、 世界のしたたかな指導者達に馬鹿にされ、日本国は永遠に外国の手玉に取られた哀れ な道化師国家でいなければなりません。
海軍さんのように世界規模で物事を判断できる人物を育てる教育が望まれます。

Kさん


2000.2/6

はじめまして

川崎のO と申します。
貴ホームページ見せていただきました。
海軍に関しての充実した内容に感心いたしました。
さて私も自分のホームページに海軍を舞台とした論文を掲載しました。
http://www.people.or.jp/~deutsch/
論文のタイトルは「藤村義一 スイス和平工作の真実」 です。
お時間がございましたらぜひ一度訪問下さい。

川崎のOさん


2000.1/31

すま 様

本当の海軍キチなんですね。
小生は父親の53才のときの子供です。
父親は兄弟6人(その内4人が男子)の内 男子の一番下でした。したがって、常識で はちょっと考えられない、90年以上前の 戦争に参加した者の甥が52才ということ になりました。
父親の兄弟は、
長男:日露戦争参加、後に海軍水雷学校教官(だろうと思う)
次男:船乗り(東京商船出身:外航船船長を経て海事補佐人)
三男:海軍少将(海軍大学出身:東条英機に逆らい戦犯を免れる)
著書多数あり。興味おありでしたらコピー等いたします。
偶然、小生の前勤務先の事務局長が海軍兵学校出身で、自衛隊戦史編纂に たずさわった関係で、旧軍関係者からのインタビュー資料を多数持っておられる ようです。その中におじに対するインタビューもありました。いま、どこにおい てあるかちょっとわかりませんが。
四男:わたしの父(東京商船出身:外航船機関長を経て神戸高等商船学校教官) 昔の制度では商船学校卒業生も自動的に海軍予備士官だったように聞いておりま す。
長女:F家に嫁ぐ(F家関係者に海軍中将:手許に資料なし)
東京の甥も(44才:海軍記念日に結婚式をあげた)
上記次男の三男、海軍兵学校出身:長男、次男戦死
上記海軍中将Fは日本海軍の暗号にかかわったとか。

滋賀のFさん


2000.1/8

すまさん、こんにちは、今年もよろしくおねがいします。

先日実家へ帰ったら、井上成美伝記刊行会(海軍兵学校第71〜78期会) 井上成美 がありました。
もう、見ることもないし、お持ちでなければ,もらってもらえませんか?
そーそー、これは、なかなか同年代の人には,わかってもらえませんが、若いころ昭和史の何かの本(たしか,西園寺公望の秘書が書いた本?)に関連して、阿川弘之さんが、何か本を書いておられて,無謀にも自分の感想を書いて送ったことがありました。
なんと、阿川さんから、直筆の返事がきて「貴方のやうな、若い女子高校生に、私の書いたものが,読んでいただけるなんて、光栄です。
昭和天皇のことは、あなたも、わたくしぐらいのとしになれば、おわかりになられるのではないでしょうか」とありました。

久しぶりに実家でその手紙をみつけました。

私の宝物のひとつです。

福山市 I さん(女性)


2000.1/7

須磨成彦様

はじめまして。突然のメールをお許しください。
宮崎県に住んでおりますAと申します。
HPを拝見いたしました。私の父は予科練十三期だったのですが その後も軍艦や飛行機が好きで,本を読んだり絵をかいたり しておりましたが,昨年五月に亡くなりました。
正月に帰省して,残された「丸」などを見ておりまして,もし ひょっとしてこれらの雑誌や本を読んでくださる方がいらっしゃれば…, という気になりました。
雑誌は主として「丸」「航空ファン」「世界の艦隊」です。
「丸」は昭和33年,「航空ファン」は昭和46年,「世界の艦隊」は 昭和48年あたりからありますが,残念ながらバックナンバー 全部がそろっているわけでもないようです。特に古いところは抜けています。
「丸」の昭和30年代あたりは,破れたり,セロテープで補修したりしてあります。
幼かった私がクレヨンでいたずらしたものもあるようです。
他にも軍事や戦争関連の本や写真集が何十冊かはあります。
珍しいものであるとは思えませんが…。
もし希望の方があれば,お分けできる本のリストを作ろうと思います。
希望としては,送料とビール1本分(父に供えます)を負担していただくことと, 気長に待っていただくことです。私は現在実家を離れて暮していますので, 次に帰省した時に(たぶん春頃になると思います)お送りすることになると 思います。

誠に不躾なお願いですが,須磨さんか,お知り合いの方,HPに集う方などで 興味を持ってくださるような方はいらっしゃらないでしょうか?
まず,須磨さんにどのようにしたらよいか,お考えをうかがえれば幸いです。
もし希望する方がいる見込みがないのならば,もちろんこちらで処分しますし, 掲示板に投稿したり,他の方法を取った方がよいならば,そうしたいと思います。
須磨さんのHPで,小さい時に父にモールス信号を教わったことを 懐かしく思い出しました。手旗信号も習ったのですが…。全部忘れています。
突然勝手なメールをお送りして,申し訳ありません。もしよろしければ お返事をいただければ幸いに存じます。

宮崎県 Aさん(女性)


2000.1/1

 あけましておめでとうございます。

突然のメールでして、誰かも分からないでしょうが、失礼をお許し下さい。
いつも「帝国海軍」のホームページを拝見させて頂いておりまして、いつも思う 事は、「すま」さんの行動力と、人脈の素晴らしさに驚かされる次第であります。
実は私はパソコンなるものを買いましてから、まだ日が浅く至らない点が多々あ るかと思いますが、御指導御鞭撻の程を宜しく御願いいたします。
ところで、「海軍」のホームページの事ですが、いつも見てはいるのですが、何 か気遅れしてしまい、なかなか「大本営第2会議室」の方へは書き込みが出来ず におりました。(笑)しかし、このままではいかん!と思いメールを書くことに した次第です。本当につたない文章ではございますが、ご容赦下さい。

では、自己紹介させて頂きます。
私は昭和44年7月20日に、北海道で生を受けました。
小さい時から、母方のおじいさんにかわいがられそだちました。
その、おじいさんというのは、国鉄(当時)の車掌区の区長でありました。
そのせいか、どうかはわかりませんが、おじいさんは徴兵されませんでしたが、 母方の兄弟、父方の兄弟は皆大体、大東亜戦争に行きました。
そして、その話を、後日談のように、おじいさんから大東亜戦争についての話を 聞きました。
その、内容については今更「すま」さんに話てもそれこそ、釈迦に説法の様な気 がしますので・・(笑)
その、おじいさんの話や、親戚の帰還者の話を聞き、いつしか明治新政府建国以 来の歴史、ひいては日本史の歴史研究が趣味となってしまった次第です。
最初は、私の曾祖父が参加した戦争である、いわゆる日露戦争の研究から始めて 特に第3軍が攻略した、「旅順要塞」の戦いの研究が主でした。
私の曾祖父は、旭川第7師団の中隊長(陸軍大尉)でした。ところが、第4回総 攻撃の際の「203高地」の突撃で、両足切断の重傷を負い、帰還したと言う事 です。それいらい私の(特に母方)の兄弟達は、皆軍人となってしまったそうで す。今でも、実家には、天皇、皇后両陛下の御写真が飾られております。
現在は、私は千葉県我孫子市というところに住んでおり、家族は妻(30歳)と 娘(2歳)の3人で暮らしております。
私は軍人一族の血を受けてか、警察官という職業についており、国民の生活の安 全を守る事に誇りを持っております。(殆どの親戚、兄弟は自衛官ですが(笑))
今は、大東亜戦争の帝国の各作戦とその内容を防衛庁の資料などつきあわせて研 究しております。やはり、特に考えるのは、いわゆる、「ミッドウェイ」海戦で すか?「ミッドウェイ」(淵田美津雄 奥宮正武共著)と、海軍戦闘捷報は微妙に 食い違いがあり、これからも、鋭意研究してゆく所存です。
長々と、書き綴ってしまいまして、申し訳ありません。
これからも、どうか宜しく御願い致します。
尚、私のハンドルネームは「流星」ですので、「すま」さんの頭の片隅にでもご 記憶頂ければ幸いです

千葉県 「流星」さん


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