奇蹟の闘病記-No.4


・ 十六      回復        ・

 6病室に入室した。
 以前のナースステーションの横と違って、付き添いのベットが置けたので非常に助かった。
 というのは前の病室はベットがなかったために、夜中の付き添いはずっと座ったままでしかできなかったので、途中で待合室のベンチを使ったためなりゆきと一緒にいれなかったのである。
 今度は一緒なのでそれこそ、一日中話しをしたり、食事をしたり、絵本を読んであげたりできるようになった。
 最初は流動食だけであったが、2日ぐらいでおじやが出てきた。
 入院後はじめての、食事だったのでおいしそうに食べていた。
 「おほうはん、おいひいなあ」と喜んでいた。ただまだ自分でスプーンが持てないため、ベットに横たわりながらの食事であった。
 このころになると、面白い話をすると、笑顔が見えだした。まだ目はどこを見ているか定かではなかったが、意志やギャグが通じるのでこちらも話に力がはいった。
 3日目になるとベットを少し上に傾け、半分起き上がった状態で、自分でスプーンを持たせての食事をした。何回もスプーンを床に落としては拾いの連続であった。
 やっとスプーンにおじやを入れて口に持っていこうとしても首がすわっていないために、口のはしから液体がこぼれ出た。
 4日目くらいに、90度の角度でベットをおこしても、しっかりすわれるようになっていた。首はあいかわらずダランとしていたが、電車のおもちゃを動かしたりして遊べるようにはなっていた。
 5日目くらいに、足の運動の効果があってか、自分で曲げのばしできるようになった。
 このころは目の焦点もだいぶん戻ってきており、どこを見ているかがわかるようになっていた。目の前の指の動きにもしっかりついてこれるように戻ったので一安心した。
 横に付いている時は、百人一首を読んで聞かせてあげた、反復して読むので発音はおぼつかないものの、20首くらいは暗記できていた。
 小児科のボウリング大会があって特別参加させてもらった。わたしがだっこしたまま、紙で作ったピンをボールで倒すのである。
 全然検討違いの方向に飛んだが、看護婦さんが軌道修正して5本ほど倒れた。
 ごほうびに紙で作ったメダルをもらってうれしそうであった。
 一度大きな雷が病院の近所に落ちた夜があった。
 停電こそなかったものの、これがあのポンプで治療している時であったなら気が気でなかったことであろうと思い感謝したものだ。
 6日目、先生が車椅子を持ってきてくれた。「すわれるようになったから、これに乗ってもいいですよ。廊下にでてもいいですよ。」と言っていただいた。
 初めての車椅子なので本人は結構うれしそうであった。
 車椅子を押しながら、廊下やプレイルームといって遊ぶ部屋に行ったりした。
 「おとうひゃん、そといこうよ」といってねだるので、看護婦さんの許可をとって、人口芝生のテラスを散歩した。
 「あれ、おおさかいかだいがくってかいてあるよ」と、病院の壁面に書いてある文字を見ながらなりゆきが言った。漢字もわかるようになったんだなあと、おひさまがポカポカする中、非常にうれしかった。
 ある日スーパーウインチというラジコンのおもちゃをわたしの友人がお見舞いに持ってきてくれた。
 これが今から思うと手先のリハビリによく効いたのであった。
 手元のコントローラーで車の向きをかえたりバックさせたり、とにかく椅子やベットに当たらないように操縦するだけでもかなりの、手先の訓練になった。文字どおりゲーム感覚なので本人も飽きる事無く熱中していた。
 10月2日プレイルームでお月見会があったが、まだ正式に病室から出れないため参加できずであった。
 一週間ほどしてから、正式に山口先生から、病室を出てもいいですよという許可がおりた。
 これで大手をふって、プレイルームにいけるなあと喜んだ。
 おぼえているのはこのころ、プレイルームのTVでは「巨人対広島」の最終戦をやっていたことである。


・ 十七     リハビリ       ・

 リハビリがはじまった。久しぶりに病棟から出ることがうれしいらしく、楽しみにしていたようだ。
 「おとうさん、デハビリいこうよ、デハビリ」、「リ」の発音ができなかったのだ。
 リハビリルームは小児科病棟の一番端の一階であるため、そこに行くだけでも結構な運動になった。悠に100メートルはある廊下をつたわりながら映画の「ET]のようにトボトボ歩いていく姿がいとおしかった。
 リハビリルームからの帰りしな、隣にジュースの自動販売機があったのでそこでイチゴ牛乳を買ってもらえるのがうれしくて、いつも「おとうさんデハビリがんばったから、ジュース買ってね」とねだられた。  一度ジュースを買って、すぐに病室に帰らずに天気がよかったので病院の中庭を散歩して戻った時がある。
 この時看護婦さんにえらい剣幕でおこられた。
 「おとうさん、リハビリが終わったらすぐにかえってきてくださらないと困ります。全館中さがしましたよ!」
 看護婦さん、すいませんでした・・・
 このころ心のリハビリというものを痛感した。
 体のリハビリはちゃんと、リハビリルームなるものがあって、担当の医者がいてその子の症状にあわせたメニューどおりに進めていけばよいので、本人以外は比較的楽である。
 そのうえ結果も目に見えてわかるだけに判断のしようがある。
 しかし心は目に見えないのと、メニューがないのでわれわれ両親で判断するしかない。   一番なりゆきの心が痛んでいると感じたのは、以前簡単にできていた動作がまったくできない時の彼の顔の表情を見るときであった。
 例えばフォークを持ってコロッケを突き刺すような普段なんでもない動作が、なかなか自分の思うようにいかないのである。何回か突き刺してもコロッケがにげまわり、あげくの果てには持ち方が悪いのでフォークすら床に落としてしまうのである。
 その時に早く食べたい気持ちと、「なんで前出来た動作が出来ないんだろう?、いったいぼくの体はどうなったんだろう?このままずっと治らないんだろうか?」という不安な気持ちが顔に出ていた。
 そしてその気持ちを、伝えるにも発音が悪いので、われわれに思うように伝わらないもどかしさもその気持ちに拍車をかけたのであろう。夜中になるといきなり昼間のそういったストレスが爆発するらしく「ウオー、オー、ワアー」と絵本をよんでやっているときなどにいきなり大声で奇声を発するのであった。「お願いだから、静かに本を読むのを聞いていて・・・」と哀願したが、10分くらいは大声を出し続けるのであった。それが治まるとよほど疲れたのか眠るのが常であった。


・ 十八     車椅子        ・

 今まではあまり気にもとめてなかったが、電車に乗った時によく車椅子に乗った子が目につくようになってきた。
 その子供の事もさる事ながら親御さんの心痛をおもうと、本当にかわいそうに思えてきて今まであまりやったこともない、電車に乗せる手伝いを率先してやったものである。
 超能力でどんな病気でも治癒できる元商社マンという話題が週刊誌に載っていた。
 この人は手をかざすだけでどんな病気も治す事ができるらしい。
 実際にアプローチしてお願いしようかと真剣に考えたものである。
 車椅子に乗ってからは、なりゆきの行動半径はうんと広がった。
 まず他の病室に行って同年代のなんらかの病気にかかっている子供たちと会話をしたり、いままでおしめで用をたしていたのが、トイレへいけるようになったりもした。
 「やっちゃん」というななめむかいの子がいた。この子は幼児の時に大きなガラスに全身をぶつけて、中枢神経を傷つけ、やはり歩行と言語が不自由であった。
 この子となりゆきは、3才ほど年がちがったが、歩けないことでは同じであったのでよく病室へいっては絵本などを一緒に読んでいた。
 御両親とも親しくさせていただいた
 お母さんは気丈な人で、歩行器によりかかって歩いている自分の息子がだだをこねたり、泣いたりすると真剣に怒っていた。
 まわりの普通の子と区別しないのが方針であったそうだ。
 ハンデを背負った子を怒るのは勇気のいる事であるし、とても自分にはできないと感心したものである。
 むかいの女の子は、川崎病といって、現在医療機関が研究している病気で、頭を坊主にしていた。いつもバンダナをまいていたのが印象的であった。
 にもかかわらず、この子はメチャクチャ明かるかった。
 いつもなりゆきの病室に来ては「おっちゃん、本かして」といって、一緒に読んだ覚えがある。
 とにかく感心したのは、それぞれの子供がかなりの症状の病気であるにもかかわらず例外なくみんな明るかった事である。
 むしろ暗かったのは、親のほうであった。  内科の雰囲気とはここがまるで違っていた。
 生命力旺盛な子供たちばかりだからかもしれない。逆に励まされる時があったくらいである。「おっちゃん、なりくん大丈夫やからあんまり心配せんとき」と。
 「あの時のみんな、ありがとう、必ず元気になって下さい。」


・ 十九   こどもの回復力      ・

 最初にリハビリルームにはいった頃、70才くらいのおばあちゃんが一人いた。
 このおばあちゃんは手が悪いらしくて、いつもお手玉を投げては拾っての手のリハビリを一生懸命やっていた。
 そのおばあちゃんは、最初、横で苦しそうにはいずりまわるなりゆきを見て「小さいお子さんなのに歩けないんですか?かわいそうにねえ・・・」と本当に慈悲深い目で涙を流してみていてくれた。
 次の日、ハイハイができるようになった。
 水泳の平泳ぎのようになんとか体を前にずらせるようになった。
 おばあちゃんはまだお手玉をしていた。
 三日目、赤ちゃんのように膝をたてて這えるようになった。
 まだ手や足に感覚が戻ってないらしく膝がブルブル震えていた。
 四日目、ハシゴを利用してのつかまり立ちの練習。
 立つだけでもやっとなのに、なりゆきはハシゴを登ろうとして、それができなくて悔しそうであった。
 五日目、ハシゴを使っての横歩きの練習。
 なんとかカニのように横歩きで平行移動ができた。
 ただ足の負担が大きいらしく、立っている間中足がプルプル震えていた。
 六日目、自分の体より大きなボールを使っての、押しながら歩く練習。
 ボールの上にまとわりついて遊んでいた。
 このころになると顔の表情がだいぶ楽しそうに笑うようになっていた。
 七日目、平行棒を使っての歩行練習。
 ヨタヨタながらも歩行は、つかまらずにでも出来るようになっていた。
 八日目、三輪車を使っての足腰の訓練。
 久しぶりの三輪車がよほど嬉しかったのか、大笑いして乗っていた。
 しかし以前のように思うようにスピードが出ないのでちょっと残念そうであった。
 九日目、三輪車を使っての中庭での走行。
 真ん中のちょっと勾配のあるところでは、しんどそうであったが明るく乗っていた。
 この間中となりのおばあちゃんはずっと、お手玉をしてなりゆきの回復をみていてくれた。
 「10日間でこんなによくなるとはねえ・・・わたしは1年間もこのお手玉だけをやっているんですよ。子供は治りが早いって言いますものねえ、うらやましいです・・・・」
 これらのメニューを毎日完璧にこなしていったので、2週間後には「もう自宅からの通院リハビリでも結構ですよ」といわれた。
 「正直言って最初にリハビリ室に来た時は、2ヵ月ぐらいかかるかなあと思っていましたが、本当にこの子の回復力には驚きました。」と女のリハビリ担当医のかたが、言っていました。
 それ位、親のわれわれが見ても回復の速さには驚嘆させられました。


・ 二十      退院        ・

 待ちに待った10月12日がやってきた。
 本当は10月5日だったのであるが、一応念には念をいれての処置であった。
 長い長い2ヵ月間であった。
 本人が一番長かったであろう。
 人一倍外で遊ぶのが好きな子供だけに、とにかくうれしそうであった。
 「ラピート乗せてよ」「ハンバーガーかってよ」「遊園地つれてってよ」とかとにかく約束事を全部履行しなくてはならないハメになってしまった。
 「よっしゃ、心配せんでも全部やったげる!」なんと気持ちのいい日であったか。
 病室を出て山口先生にお礼をのべました。
 先生はこう言いました「医学界の奇跡だなあ・・」と。
 そして小児科の各看護婦さんにお別れを言った後、内科病棟4階の以前お世話になった看護婦さんのところへも行きました。
 「えー、なりくん歩けるん?」
 「よくがんばったねえー」
 「目を開いたらこんな顔してたんやねえ」とかいろいろな祝福のことばをいただきました。
 「え?おねちゃんたちだれ?」
 「あっそうかあ、ずっと寝てたからしらないんだあ」と大笑いしました。
 「本当は、今だから言えるけど、もうダメかもしれないと思った事が何回もあったんですよ。」とある看護婦さんに言われました。
そんな時にでもいつも「大丈夫ですよ!」と明るく励ましてくれていたのです。
 本当に皆さん有難うございました。
 皆さんの事は一生忘れません。
 親子3人揃って、玄関の門を跨いだ時、無常の喜びと感謝の気持ちでいっぱいでした。
 もうお金もなにもいらない、健康であれさえすれば....と本気でそう考えました。
 まだまだ家でのリハビリの訓練が残ってはいたものの、これまでのあのつらい気持ちを思い出すとどんな苦労でも乗り越えられる自信がついたと思います。
 現在、なりゆきはわたしの隣でこの原稿を書くのを、眺めています。
 家でのリハビリの成果もあってか、今は一切普通の子と変わりません。最初は足に震えが残ってましたがそれも今はどうにか治まりました。
 この子の闘病記を書くことがはたしてよいものかどうか正直迷いました。
 今現在も病気と闘っているとか、ついに施しようがない状態になったとかであればまだしも、ほとんど完治した事を書くことは、自分たちだけのラッキーを見せびらかす事にしかならないのではないかと考えたからです。
 しかしこれほどの状態からでも、回復したという実例を示す事は決してそのような形に受けとめられないであろうという結論に達しました。
 この本を書くことにより、全国の同じ症状の子供さんをもつご両親のかたたちに、自信と希望がもてていただければこれほどの感激はありません。

 ちょうど「はるかちゃん」がわたしたちにそうしてくれたように・・・・


      、なりゆき90日間の闘病記録、

   8月14日  昏睡状態にはいる 夜中に救急病院で点滴
     15日  大学病院入院     内科病棟4階4号室
     16日  麻酔投入
           、              地蔵さん参りスタート
           、              禁酒スタート
           、
           、心搏急騰
           、
           、肝数値異常
           、
           、小児病棟に移動
           、
           、
           、麻酔の量を減らしていくが覚醒せず
           、
   9月 8日  覚醒
           、手
           、足
           、眉
           、舌
           、呼吸
           、会話   6号室に移動
           、     車椅子
           、
                 、
           、     リハビリ開始
           、歩行
           、
           、
           、
           、三輪車
  10月12日  退院
           、     通院リハビリ
           、
           、走行
           、
           、
           、
  11月10日  通院リハビリ終了
             あと自宅療養

          この時点で指が小刻みに震える他は大きい異常なし。至る現在。



元に戻りたい方はこちら