【近衛首相と山本長官の会談】
昭和15年9月頃だったと記憶しますが、時の連合艦隊司令長官山本大将が、当時の総理近衛文麿氏を訪問、会談されました。
当時ドイツは各戦線において連戦連勝し、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結し、他方米国は英国と同盟を強化し、日米間は次第に緊迫しつつある時でありました。会談はこのような時に行われたのでありますが、もし、日米相戦わざるを得ない時はどうなるのであろうかの問題について、山本長官は次のように話しています。
「……結果を考えずに是非やれと言われれば、初めの一年や一年半は存分に暴れて見せます。しかし、二年、三年となれば、責任を持てない……」と述べております。この山本長官の話は、一国の運命を左右する帝国海軍の最高責任者の言葉としては如何なものかと、密かに厳しい批判をした人々もあったようです。
しかし、当時私は、この話を聞き、山本長官は「艦隊戦闘力の第一は行動力にある」という観点から意見を述べたものであると直感しました。すなわち、当時わが海軍の平時における燃料消費量は年間約100万トンであり、戦争に突入すれば、その所要量は平時所要量の約4倍、すなわち400万トン必要となります。当時、日本海軍の燃料備蓄量は約600万トン(実際は650万トン)でありましたから、山本長官は、この燃料備蓄量から見て、1年や1年半は暴れて見せますと申されたと推定します。すなわち、裏を返せば、対米戦争は、やってはいけないという進言であったと思います。
当時、近衛さんは第2次近衛内閣を組織し、陸海軍はもとより、政界、財界並びに国民から厚い信頼を受けておられた時であり、山本長官の心中を洞察するに、全力を挙げて日米対立外交から日米協調外交へ取組むべき時であったと思います。すなわち、当時交戦中の英、独はそれぞれアメリカ、日本の同盟国であります。したがって、近衛さんが大局的見地に立って、米大統領ルーズベルトに対し、「日米協力して英独間の講和条約を締結せしめようではないか」と強く提案協議したならば、第二次世界大戦は欧州のみで終わったと思います。その結果、日米両国は戦うことなく平和国家として発展したと思います。そして、英明な昭和天皇のもと偏りすぎた陸海軍人も次第に改革され、支那大陸からの撤兵、南方資源の確保等平和裡に行われ、新生日本時代を迎えたのではないかと思います。要するに近衛二次内閣時代こそ、日本運命の分岐点であったと思いますが、残念ながら近衛さんでは不可能だったわけです。
今一つ、井上成美大将のことをお話したいと思います。井上さんが航空本部長時代、すなわち、昭和16年初頭、当時軍令部提案の軍備を「明治の頭で昭和の軍備を行わんとするものである」と、大艦巨砲主義を厳しく批判されました。そして、「戦艦不要論」と「海軍航空化」を骨子とした「新軍備計画」を時の及川古志郎海相に提出されました。
もし、井上大将の提案が採択され、航空機を中心とした新軍備が推進され、太平洋方面の重要諸島を不沈空母としての防備を強化完備したならば、日本は不敗の態勢を確立し、講和の好機を得たと思います。
私は終戦前、約一年近く海軍省において井上成美次官のもとで勤務しましたが、井上大将の「新軍備計画」「兵学校長時代の教育改革」及び「終戦の決断及び推進」は責任者として真に立派であったと思います。
思うに一国の軍備をどのように策定するか、内政外交をどのように進めるか、容易なことではありません。特に、現在のように驚異的な科学の進歩、情報技術の更なる発展時代においてはなおさら至難と思います。
今から六十余年前、日本が日本の運命を決定すべき時、我が海軍の二提督にまつわるこの話が何等かのご参考になれば、真に幸いです。