【燃料を志す】

 昭和6年海軍機関学校卒業後、練習艦隊“磐手”、連合艦隊“摩耶”等に勤務、機関中尉となり、横須賀にあった海軍工機学校に入学しました。

 同校在学中、昭和11年2月26日、皆さんもご存知の「2・26事件」が勃発、国の内外に大きな衝撃を与えました。時の横須賀鎮守府司令長官は

米内光政中将、参謀長は井上成美少将、機関長が鍋島茂明機関大佐でありましたが、この事件の時、私は若干「左巻き」と思われたようです。なぜかと言えば、程なくして私は遥か遠く支那方面艦隊の砲艦保津(ほづ)”機関長に左遷されたからであります。保津は排水量わずかに300トン、その付近の海面にあるポンポン船と同じ位で、当時上海より揚子江を遡ること実に3千キロ、支那大陸の奥地()(しょう)に碇泊中でありました。今でいえば、北極圏に近いシベリアの奥地に赴任するようなものです。

 私が支那に赴任する時、2〜3の者から「君は左巻きのレッテルを貼られたな!!」と言われたことを時々想い出します。しかし、元東大総長の林健太郎氏は「20代で社会主義的な考えを持たない奴は馬鹿だ!!」と言われておりますので、当時の小生の思考はまあまあ普通であったと思います。なお、林氏は、「40歳以上になってもなお、社会主義的考え方を持っている者はもっと馬鹿だ!!」と言われています。林さんの言葉を思い出すたびに、今の日本には、進歩的文化人とか、何とか言って、随分馬鹿が多いなとしみじみ思います。

 それはそれとして、長崎から長崎丸で上海に渡り、上海から揚子江を遡り、約1ヶ月かかって、四川省の宜昌に到着いたしました。

 皆さんご存じのとおり、新任士官が艦に着任する時は、必ず士官または下士官指揮の迎えのボートが来ます。しかし、私の乗っている船が宜昌についても、誰も迎えに来てくれません。

 しばらくすると、一人の支那人が「ホアツ」(2〜3人乗りの小さい舟)を漕ぎながら船に近づき「機関長さん!!」と呼ぶではありませんか。小生迎えの舟です。この時ばかりは、いささか身にこたえました。

 私の揚子江勤務は約1年有余、その後期はご存知のことと思いますが、()(こう)(きょう)事件が勃発、戦禍が揚子江方面に及び、戦時勤務となりました。この間、私は重要な2つの経験をいたしました。

 一つは石油問題に関心を持ったことです。すなわち、上海から九江、漢口(武漢三鎮)に至る間、石油と言えば全て欧米に掌握されていたことに気付きました。当時「石油の一滴は血の一滴」とまで英国のチャーチルが申していましたが、支那は完全に欧米の支配下にあると痛感しました。日本はどうであろうか!! 等と考え、石油問題を研究しようと思ったわけです。

 以後、私は海軍在籍中、燃料方面の勤務に終始し、私の人生に大きな影響を与えたようです。

 今一つは昭和12年12月1日勃発の南京攻略作戦に参加、南京陥落まで約1ヶ月弱戦場にありましたが、この短期間に3回に亘り決死行の指揮官となったことです。

 人生というものは真に不思議なもので、私は同年12月1日付けを以て海軍大学校専科学生に任じられたのですが、その日乃ち12月1日に南京侵攻作戦が発令、しかも乗艦保津は南京攻略作戦の先頭艦を命ぜられました。

 したがって、そのまま先頭艦機関長の任務を遂行しました。しかも遡航作戦開始直後、乃ち12月4日、突然艦長より江陰下流の閉塞線啓開の決死行を命ぜられ、部下6名を引率指揮し、烈しい攻撃を受けながらも見事に航路啓開に成功。以後我が南京攻略隊の侵攻を容易ならしめました。

 更にその後、敵艦寧海の拿捕、烏龍山下流の閉塞線強行啓開等、3回に亘る決死行指揮官として重要使命を完行しました。

 時の支那方面艦隊(第3艦隊)司令長官は長谷川清中将でありましたが、昭和15年、支那事変の論功行賞の際、戦場にあること僅かに1ヶ月に満たないのに部下と共に軍人として最高の栄誉乃ち金鵄勲章を授与されました。しかしながら、私が当時痛感したことは、いわゆる軍令承行令の最も厳しい時代、しかも激戦の最中に於いて、乗艦保津には小生より一期上の海兵卒の先任将校が居るにもかかわらず、何故に私が決死行の指揮官になったかと言うことです。

 それはそれとして、この決死行に於いて部下に就いて感じたことをちょっとお話ししたいと思います。それは、戦場においては常々勇壮に見える兵よりも、真面目な兵ほど勇敢に与えられた任務を遂行すると言うことです。

 爾後私は部下を見る目、人を見る目が変ったようです。

 正直で真面目な人ほど尊いものはない!! 今でもそう思って居ます。皆さん方も思い当たることがおありと思いのすが、いかがですか?

私は先ほど申しましたとおり、昭和12年12月海軍大学選科学生を命ぜられましたが、上記の事情により12月末に入学、海大在校約1年半、続いて昭和14年4月東京帝国大学工学部に入学、桑田勉教授の下で応用化学を勉強、その間、海軍省、燃料廠、その他との接触を計り、日本の燃料行政、海軍の燃料政策等を勉強しました。

 当時日本は、重大な時局を迎えんとしつつありました。すなわち、昭和14年9月、英仏は対独宣戦を布告し、第二次世界大戦に突入しました。開戦後約1年、すなわち、昭和15年中頃、独軍はパリに入城、ペダン政府誕生、同年9月27日、日独伊三国同盟締結、昭和16年4月12日、日ソ中立条約締結、同年6月22日、独軍ソ連進撃、独ソ戦に突入しました。真にめまぐるしい情勢の変化の中、我が国にとり、国家存亡にかかわる重大問題が突如発生しました。

それは、昭和16年10月8日、米、英、蘭の三国が対日石油輸出禁止協定を発表し、直ちに実行したことです。この協定は年間石油生産量僅かに30万キロリットルに過ぎない日本の存亡に関わる大問題であり、これは大変なことになるぞと思っていたところ、10月18日東条内閣誕生、日本は国家存亡の危機をいかにして克服すべきかの重大時局に突入しました。

戻る