【日本は何故に対米戦争を決意したか】
昭和天皇は欧州において、第二次世界大戦が勃発し、戦渦は日に日に日本に及ばんとする時、大変心を痛めておられたが、国政に関与すべきお立場ではないため、ご意志をお漏らしになることは全くなかったとのことでありますが、いつのご前会議であったかは存じあげませんが、
四方の海 みなはらからと 思う世に
など波風の たちさわぐらむ
と言う明治天皇の御製をお示し遊ばされたと聞いています。
天皇陛下のこのような大御心を推察し、時の政府首脳達は、日米戦争回避にあらゆる努力を尽くしたと思います。
当時、アメリカの考えは、「日本は対米戦争を絶対にやらない」と判断していたようです。その理由は、明治40年以来、日本はアメリカを仮想敵国の第1位としている。しかも、アメリカは太平洋遥か彼方の大国である。したがって、このような国と戦争しても絶対に勝つことはできない。したがって、常識的に見て日本は絶対にアメリカとは戦争をしないと判断していたようです。
他方、燃料問題から見ても、日本は絶対に勝ち目はありません。すなわち、海軍戦闘力の第一は鉄砲でもなければ、魚雷でもありません。戦闘力の第一は行動力です。
この行動力の根元は燃料です。この燃料の日本における生産量は年間僅か30万トンです。もし、戦争になったら、戦時所要の一ヶ月にも足りない。しかも、小生が東大在学中、当時海軍所要燃料は全量米国より輸入していました。そして、海軍燃料廠の石油関係技術も、米国の技術と密接な関係がありました。したがって、燃料面から見た場合、米国とは絶対に戦うべきではなく、もし、開戦を主張するとすれば、狂気と言う外はありません。すなわち、日本は昭和16年初頭以来、米国との衝突を避けるため、あらゆる外交努力を尽くしました。
しかしながら、その効なく、昭和16年10月8日、英米蘭は対日石油封鎖を宣言し、日本の首の根を締め付けたのです。さらにまた、米は同年11月26日、ハルノートを突きつけました。その内容は、絶対承知できないものでした。すなわち、「仏領印度支那並びに支那大陸に進駐の軍隊並びに警官を全部撤収すべし」という内容のものでありました。これでは宣戦布告と同じで、隠忍のわが国もついに「座して死を待つより立って活路を開く」ということで開戦の決意をせざるを得なかったと思います。思うに戦争回避の好機は昭和15年山本連合艦隊司令長官が時の近衛総理と会談の頃であり、もし当時の総理が山本権兵衛、加藤友三郎のような人物であれば、必ず戦争の危機を回避できたと思うのであります。
(参考)開戦の経緯について、戦後開かれた海軍首脳の座談会記録が元毎日新聞記者・元海軍報道班員・新名丈夫著書にあります。