【天号作戦を回想す】
昭和19年10月のレイテ作戦に敗退、翌20年2月の硫黄島陥落後、日本の「絶対国防圏」を突破した米軍の次の上陸作戦はどこであるかを検討の結果、我が統帥部は次のとおり予想しました。
1. 天一号作戦 : 敵が沖縄方面に進攻した場合
2. 天二号作戦 : 敵が台湾方面に進攻した場合
3. 天三号作戦 : 敵が南支那海沿岸に進攻した場合
4. 天四号作戦 : 敵が仏領印度支那沿岸に進攻した場合
以上の内、最も可能性が高いのは沖縄方面であると予想し、陸海両軍は同島防衛に全力を尽くしました。
そして、敵は同年4月1日、沖縄揚陸作戦を開始します。その兵力は、海上部隊約300隻、上陸用舟艇約1,400隻、航空機1.200機、上陸部隊約20万という膨大な戦闘部隊でした。
これに対する我が沖縄防衛部隊は、牛島陸軍中将旗下の第32軍と大田海軍少将率いる海軍陸戦隊でありました。
この時、我が連合艦隊豊田副武司令長官は神重徳作戦参謀策定のいわゆる海上特攻作戦を決定します。すなわち、伊藤整一中将統率の第2艦隊戦艦大和、軽巡洋艦矢矧及び第2水雷戦隊8隻をもって、あの膨大な敵戦闘部隊を襲撃する作戦であります。勿論、万が一にも成功しない作戦であります。
伊藤2艦隊長官は、6,500名の将兵を犬死させるのは、真に忍びないという考えで、連合艦隊司令長官の命により第2艦隊長官を訪問した草鹿参謀長に対し、今回の作戦目的は何かと質問します。すると、草鹿参謀長は帝国海軍の最後の水上特攻であると答えたそうです。
某駆逐艦長が、海軍最後の特攻ならば、連合艦隊司令長官自ら先頭に立つべきではないかと詰問します。すると、参謀長は沈黙したまま何等返答しなかったそうです。そして、最後に伊藤長官に一億総特攻のさきがけになってもらいたいと云ったとの話です。
この作戦は水上特攻であるから、搭載燃料は片道分にすると決定されたのですが、燃料戦備責任者としては作戦がどのように変わるか判らぬ、万が一の場合を考慮し、燃料を満載すべきであると、呉鎮機関参謀に連絡します。すると、機関参謀より次のような連絡を得ました。
連合艦隊小林儀作機関参謀が機密裡に呉に来られ、呉鎮参謀長以下各関係参謀と協議の結果は、第2艦隊全艦燃料満載のことに決定、この数量1万トンとの報告を得ました。
戦後一般に言われた片道燃料の海上特攻部隊は、実は約1万トンの燃料を満載して出撃しました。もちろん、この作戦は殆ど無為に等しい作戦であり、戦艦大和以下軽巡矢矧、駆逐艦5隻皆撃沈され、残存の駆逐艦3隻が沈没艦艇の多くの将兵を収容して帰還します。この天号作戦は、我が海軍最後の出撃戦であり、伝統を誇る無敵艦隊と称された帝国海軍は完全に消え去ったのであります。悲痛の極みでありました。
なお、航空機による特攻は、菊水一号より十号まで決行されました。
この沖縄攻防戦は、6月23日牛島司令官の自決をもって終了するのでありますが、約3ヶ月にわたる戦で我が方の損害は、陸上だけで6万6千の将兵、沖縄出身の軍属5万5千、市民9万5千の犠牲者を出しました。
また、航空機は、2,258機(内特攻約1,900)の多きに達しました。米軍も11,400名が戦死し、陸上部隊総司令官バックナー中将も戦死しました。
この作戦は本土決戦に対する時間稼ぎになり、かつ、米軍をして日本本土攻撃を慎重にさせたという大きな効果があったと言えましょう。