【特攻作戦について】
特攻作戦が提案されたのは昭和18年であります。ミッドウエー作戦に予想だにしなかった惨敗を喫し、続いてソロモン方面において烈しい消耗戦を繰り返し、しかも不幸なことに昭和18年4月山本連合艦隊司令長官が戦死されました。当時、海軍は緒戦のハワイ作戦の大勝に酔い、ミッドウエー海戦の大敗にもかかわらず、なお、驕りの心があり、米軍の手強さを十分認識していなかったように思われました。したがって、このまま行けば、日本は危ういと痛感されたためでありましょうか、昭和18年6月11日開催の軍令部の「戦備考査部会」で、時の軍令部第2部長黒島亀人大佐が「必死」「必殺」の戦備を提案されました。これが、我が海軍特攻隊創設の契機であります。
しかし、この提案は、直ちに採用されませんでしたが、昭和19年6月今次大戦に際し御前会議において「絶対国防圏」と決定されたマリアナ諸島が、あ号作戦及びマリアナ海戦の惨敗により、敵の手中に落ちた結果、日本は重大な危機に直面するこことなり、その結果、昭和19年9月13日海軍特攻部が新設され、大森仙太郎中将(海兵41期)が初代特攻部長に就任されました。
時の第1航空艦隊司令長官は、寺岡謹平中将であり、10月20日大西滝次郎中将が就任されました。
特攻部創設以来、特攻隊は数々の戦果を挙げましたが、犠牲者も多く、陸海軍合せて約4千7百有余名に及びました。
そのうち、海軍関係者は3,056名であります。その内訳は、
予 科 練 出 身 者 : 約3分の2
予 備 学 生 出 身 者 : 約3分の1
海軍兵学校・機関学校卒業者 : 約百数十名
戦後、特攻に関し、様々な批判がありました。しかし、我々は、否、私は唯々英霊の御冥福をお祈り申し上げるのみです。
最後に付記したいことは、特攻最初の提案者黒島大佐(後の少将)について若干の批判がありますが、他に勝るとも劣らぬ憂国の士であったと思います。同氏は、昭和20年以後の燃料戦備を憂い、2 〜 3回わざわざ私のところに来て熱心に意見交換をしました。軍令部兵科参謀の絶対にしないことであります。