2000.10/25
突然ですが、長い間疑問に思っていることがあります。
会社の先輩に借りて読んだ本のことです。
たしか、「零戦特攻」という、角田和男氏(お名前も先輩が、「ツノさん」と呼んでいた)が、書いた本の中で、真珠湾攻撃時の話がありました。
そこで、飯田大尉という人の事がありました。
その本では、「飯田大尉は機体に被弾したのではなく、自らの意思で
格納庫に突っ込んでいった」と、書いてあったような覚えがあります。
でも、他の本では機体に被弾したため自爆したということしか、書いていません。
誰かご存知でしたら、教えて頂けると幸いです。
(あまりにも記憶が曖昧で詳しく書くことができなくてすいません。本屋に問い合わせたところ「零戦特攻」も既に廃刊となっているそうです。
会社の先輩も本が見当たらないらしいです。)
メールネーム 「しん」でお願いします。
2000.10/15
こんにちは。
突然のメールですみません
福岡県大川市にすむ者です。
来月、タイや、ベトナムなどのアジアの国を旅行する時に、
ビルマで戦死したという祖父に手を合わせてこようと思うのですが,
はっきりした場所がわかりません。
祖母は雲南省(中国)だといっているのですが。
もし何かご存知の方があればと思いまして…
教えてください.お願いいたします。
祖父がいたのは、南方派遣龍六七四九部隊です。
2000.10/4
突然のメール失礼致します。
横須賀市で8月末に発生した海軍の爆雷の暴発事故について調べています。
大変苦労をしている状況で、インターネットで「海軍関係の詳しい情報を・・」と検索していました所、貴殿のホームページに到着しました、もしご協力頂ければ私の知りたい海軍の情報をお教えいただけませんでしょうか。
具体的には次のとおりです。
1、問題の暴発した爆雷は、横須賀市野比にあります現在の老人ホームから発見されたものです。
地元で聞くと、そこは終戦時は、海軍の学校があったそうです。どのような学校があったのかを知りたいです。
2、横須賀で終戦時の武装解除について、どのように行われたか知りたいです。
*海軍全般でも良いのですが、9月2日にGHQから指示が出て、アメリカ第8軍に引き渡されたらしい事は分ったのですが、その後どのように処分されたかが不明です。
その多くが、海中投棄などの処分をなされたたと思うのですが、実際に現場でどのように処分されたか教えていただきたいのです。
上記の2点なのですが、結構難しい内容なのですが、横須賀海軍の戦友会や、公文書の情報、関係書類の有無等、お教え頂けませんでしょうか。
とにかくいろいろな相談を突然させていただきましたが、ご容赦下さい。
もし、良ければご返事お待ちしております。
東京都 Sさん
2000.10/2
はじめまして。
私の祖母の弟は、戦時中に敷設艦「厳島」の乗組員でしたが昭和19年1月に戦死を
遂げました。
祖母は弟の親代わりだったので(祖母の母は、祖母の弟を出産した時に
亡くなりました)、弟の死を大変嘆いたそうです。
祖母によると弟はどこで戦死した
のかさえわからないということです。
私は小さい時から祖母から弟の話を聞かされて
いたので、祖母の弟の人柄や戦死の状況など子供の時から気になっていました。
祖母
は今では体が弱くなっているので、私が祖母にかわって「厳島」の元乗組員の方を探
し出し、いろいろとお話をうかがいたいのですが、戦友会などは存在するのかもわか
りません。
どなたか知恵を拝借させてください。
哲より
2000.10/2
こんばんわ。
私は最近ちょっと「帝国海軍」なるものに興味を惹かれ始めた者で
す。
ホームページで旧海軍の勇姿をみていると「戦艦」「巡洋艦」「駆逐艦」な
どが出てきてその区別がつきません。
区別されるとすればその性能によるものな
のか、外見によるものなのか全く想像できませんでした。
もし、よろしければそ
の違いというものを教えていただけませんでしょうか?
お忙しいところとは思い
ますがよろしくおねがいします。
kouseiさん
2000.9/30
ドイツのNさんからのメッセージ転送、どうも
ありがとうございました。
この話がメナドのことかどうかはわからないと
しても、連合軍がB−29を使って、日本軍が
全滅するまでメナドを爆撃し続けたという話は、
地元日本人会の雑誌で:駐在員の人が掲載した
資料に書かれていたのを読んだことがあります。
ちなみに現在国際空港であるメナドの空港を
最初に建設したのは日本軍だと聞いております。
最近まで日本の鹿島建設が空港の増設工事を
請け負っており、それが既に完成したとのこと。
不思議な因縁のようにも思えます。
来週その鹿島建設の中心として働いていた方が
帰国されるというので、日本人会の催す送迎会に
行く予定。
もしかすると、ここでも沈船のことについて
何か聞けるかもしれません。
でも探せばドイツのNさんのお知り合いがそうで
あるように、誰かしら多少なりとも情報をお持ちの
方はいらっしゃるようですね。
Nさんのおっしゃる
ように、次回デジカメでお茶碗などの写真をとり、
送らせていただきます。
海軍のマークさえしっかり
見てもらえば、いったいどこの何という船なのかが
わかるかもしれませんよね?
というわけで、引き続きよろしくお願いいたします。
メールありがとうございました。
インドネシア在住のDです
2000.9/27
Yahoo等でもついに訃報のニュースが載ったようで、
誤報の希望が断たれ残念至極です。
貴ウェブマスター殿なら零戦会などの方々とも
連絡を取ってらっしゃるかとも思いますが、
坂井三郎氏の追悼記事特集などHP上で組んで頂けると有りがたいです。
御悔やみ申しあげます。重ね重ね残念でなりません。
坂井氏のご冥福をお祈りしています。
愛知県 Yさん
2000.9/25
駆逐艦如月(きさらぎ)は睦月級の1等駆逐艦です。
1925年12月21日舞鶴造船所で竣工
排水量:1315トン
全長:102.7m
全幅:9.2m
吃水:3m
出力:38500馬力
速力:37.3ノット
航続距離:14ノットで4000浬
主要兵装:45口径12センチ単装砲4基
7.7ミリ単装機銃2基
61センチ魚雷発射管3連装2基
乗員:154名
ですが私の持っている資料では、駆逐艦如月は真珠湾攻撃と同時進行のウェーキ島攻
略作戦で
1941年12月11日ウェーキ島水域で飛行機に
攻撃をうけて沈没した。とあります。
Sさんのお父様はその後、他の艦艇でラバウルに
いらしたのではないでしょうか?
もしくは、私の資料が間違っているかですね。
誰かもっとしらべてください。
駆逐艦舞風は陽炎級の1等駆逐艦です。
1941年7月15日に藤永田の竣工です。
基準排水量:2000トン
速力:35ノット
航続力:18ノット/時=5000浬
主要兵装:12.7センチ連装砲3基6門
25ミリ連装機銃2基4挺
61センチ4連装魚雷発射管2基8門
(次発装填装置付)
参加作戦:ジャワ、セイロン、ミッドウェー、ガ島など
マレー沖海戦では近藤信竹中将指揮の南方部隊本隊(戦艦金剛、榛名と一緒です)の
第四駆逐隊に所属しています。
1944年7月15日?(2月17日?)にトラック島での大空襲及び敵艦の砲撃で
沈没となっています。
以上ですおそまつ。
Hさん
2000.9/23
始めまして。インドネシア在住のDです。
私と主人はともにダイバーでインドネシアはスラウェシ島
のメナド沖、ブナケン島にダイブロッジを経営しているもの
です。
先日主人が日本の沈船の情報を得たので、調査
ダイビングを行ったところ、文字が右から左へと読むように
書かれている袋一杯のキリン麦酒の瓶、海軍のマーク
らしきものが入った茶碗、なぜかアメリカ製のミシンを
引き上げて来ました。
現在情報を収集中であり、スラウェシ近辺にいた日本海軍
についてもし詳しい方がいらっしゃいましたら、情報を
お願いします。
沈船の名前は識別できません。
私自身次回の調査ダイブには必ず参加する予定で、
ほとんど今までまともに潜った人はいなかったようで、
日本人として初めて、慰霊の意味もこめて潜ってこようと
思っています。
が、私自身大2次世界大戦といえども
戦争の知識はほぼゼロに等しく、こちらでもなかなか
情報は得られないので、どうぞよろしくお願いいたします。
インドネシアのDさん(女性)
2000.9/20
ドイツのNです。
すまさん、しばらくでした。
昨日しばらくぶりに日本の鈴木のところに電話をしてみました。
なにせ国際電話で老人から話しを聞くものですので、今までの報告と話しがだぶったり、箇条書きになってしまうと思いますがご勘弁下さい。
レイテ沖海戦:
重巡愛宕が沈められて、鈴木が駆逐艦に救出されるまでなんと6時間も海水に浸かったままだったとのことです。
駆逐艦から垂れ下げられたロープにつかまり救出されたそうです。
服を乾かし、衣類を支給され、牛乳と握り飯をいただいたそうです。すこしうとうとして寝て目が覚めると、愛宕の乗組員はこれから大和にうつる旨の命令が出たそうです。駆逐艦を大和に横付けして縄ばしごを渡してもらい、鈴木をはじめ、愛宕の水兵は大和に乗り移ったそうです。
さすがに大きな大和はゆれなかったそうですが、小さな駆逐艦はゆれたそうです。大和の後甲板に上がった鈴木たちはただちに前甲板にかけり、野村大佐の訓示を受けたそうです。詳しい戦況は一切伝えられず。ただ簡単に「大和の乗組員はも戦闘で死傷し、たりないので貴様らに手伝ってもらいたい」と言った話しがあったそうです。
揚弾機の話し:
25mmは取り損なっても大丈夫ですが、12.7mm高角砲弾は取り損なったりすると倒れたりするのでいけなかったそうです。
鈴木は右舷前方の25mm3連装機関砲の弾込めの手伝いをしたそうですが、大和に乗ってから呉に付くまでの40日間はなんとトイレ以外は甲板の上で過ごし、機関砲の脇で寝泊まりしたそうです。
トイレは和式、洋式とあったそうです。
食事は主計、看護が握り飯を持ってきてくれたそうです。ですので、艦内については一切入っていないのです。
レイテ沖海戦が終わり、ブルネイに寄った時、B24が再び水平爆撃をしてきました。
その時に鈴木は顔に破片(ガラスの)をくらい負傷(当時では軽傷扱い)したそうです。至近弾が海に落ち、数秒数えても破片が飛んでこないのでちょと顔を上げたところやられたそうです。
呉につくと愛宕の乗組員は長門に来るようにとの命令があり、鈴木は大発で大和から長門に移り、長門で横須賀に向かったそうです。
その後は石巻で木造の海防艦に乗り、終戦を迎えたそうです。
ここまで話しをすると鈴木は疲れたのか(日本時間夜8時)詳しくはまた次回といって、話しを終わりにしました。
私の報告も今回は以上です。
ドイツ Nさん
2000.9/5
私の祖父は、駆逐艦舞風の艦長をしていたということです。
ミッドウェイ海戦などに出撃した時の話を昔聞いたことがあります。
駆逐艦の資料は
少ないのですが、舞風についての情報等ありましたら、教えて下さい。
よろしく、お願いいたします。
Oさん
2000.8/29
以前掲載されていた“志賀邸訪問記”は大変興味深く
素晴らしい物でしたが、リンクが無くなってしまいましたね
志賀さんからの希望でしょうか?残念です
もし再度載せる事が可能ならば、再び読んで見たいです。
愛知県 Yさん
2000.8/24
冠省
八代六郎海軍大将は、1860年(万延元年)正月3日 尾張国丹羽郡楽田村(現
在の愛知県犬山市楽田〈あいちけん いぬやまし がくでん)の大庄屋 松山庄七
の三男として出生。
幼名は浦吉。
(松山家は、楠木一族の家臣の末裔。南朝派) 九歳の時、兄、松山義根(後の丹
羽郡長、衆議院議員)の友人で、水戸天狗党、八代逸平の養子となる。
犬山藩校
「敬道館」、愛知英学校(旧制愛知一中・現在の愛知県立旭丘高校)を経て上京
し、明治14年に海軍兵学校卒。露西亜国公使館付武官(明治中期を中心とした日清・
日露戦争前の歴史TVドラマ化の場合、明石機関として有名な明石大佐とともに必
ず名が出ます。)、独逸国大使館付武官としての海外勤務をはじめ、各艦隊司令官
を歴任。
日露役、日本海海戦前夜、「浅間」艦長として、甲板上において愛用の尺
八で「千鳥の曲」を演奏。兵を落ち着かせた逸話は余りにも有名です。
その後、海軍大学長、舞鶴や佐世保鎮守府司令官を経て、大正3年に海軍大臣に就
任。
大正5年には、男爵に叙せられ、晩年は、枢密顧問官となる。
昭和5年6月30日 東京小石川区にて死去。
享年71歳。正三位勲一等功三級に叙せら
れる。
以上、簡単な略歴をお知らせいたします。
(追伸)
現在、残念なことに、大将の出身地である愛知県犬山市楽田地区においても、郷
土の偉人 松山義根・八代六郎兄弟のことを知っておられる方が、ほとんどみえま
せん。
松山本家は現在、犬山市に在住ではなく、消息もよくわかりません。
地元の
大県神社境内に大将の胸像、犬山市役所楽田出張所に書額が残るのみです。
どなたか、松山義根・八代六郎兄弟のことをよくご存知の方、松山・八代家の子
孫の方がおみえでしたら、ご一報下さい。
犬山市楽田在住 Yさん
2000.8/15
大本営第二会議室を斜め読みしていましたところ、目に留まったところがありましたのでお話します。
大和乗り組み員の三笠さんが、救助された時の様子、片手と口でロープにすがり救助船に引き上げられたとのこと、日頃受けていた腕立て伏せはただのしごきじゃなかったという箇所です。
ほんとにそうですね。海軍関係の本読んでいると理屈にあった合理性といいますか、うーんとうなるような事がたくさんありますよね。
海の様に深く大きな愛情、それがぎりぎりの運命の分かれ道で発揮されて結果的に助かっていた。
鬼の様に厳しかった上官が、遠く離れたところから微笑みながら「この日の為だったんだよ」と言っているような風景が浮かびます
。私は利根に乗っていた方、出雲に乗っていた方、千歳に乗っていた方、妙高に乗っていた方、にお話を聞いた経験があります。
いずれも最後の乗り組み員です。みなさんとても律儀で立派。
よーく考えてみると生存されている方の船って、千歳を除いて運のいい船なんですよね。
妙高はレイテ沖海戦に参加しながら途中航行不能になりシンガポール当たりに引き返していますよね。
だから今生きていらっしゃんですよね。
そんな事に妙に感心してしまうんですよ。当たり前の事なのに。
すみません。変な文章ですが御理解ください。
Kさん(前出、女性)
2000.8/14
初めてメールさせて頂きます。
当方は、33歳会社員で、現在は業務の都合上米国に在住しております。
もともと、太平洋戦争や特に海軍については子供の頃より大変興味があり今も
その興味が途絶えることなく続いております。
他の方々のメールを拝見してその質の高さに驚いております。
さて、どなたか御存知でしたら教えてください。
佐世保の親和銀行本店に佐世保鎮守府司令長官時代の米内光政中将の直筆で、「親和」と書かれた書が残っていると言われておりますが本当にあるのでしょうか。
もし現存するのであれば是非見たいと思っております。
メールネーム「mi」とさせてください。
2000.8/8
駆逐艦きさらぎについて質問されているSさんへ。
”私は父が大好きです”という言葉にどきっとしています。
私の父は私が満1歳の時戦死しました。父の乗っていた船は、レイテ沖海戦時の連合艦隊
随行タンカーでした。
戦後50年もたってから父の最後の戦場の事知りたくて、船の事随分
調べましたが、そのタンカーは民間の商船で、駆逐艦などの軍艦ではなかったので残念なが
ら”きさらぎ”については情報がありません。
そのタンカーはレイテ沖海戦が終わった時、大和
や金剛などにブルネイで給油をしたあと、マニラに行く途中潜水艦に撃沈された事がわかりま
した。
戦後、戦争の事誰も話さなくなり、家族はどこでどうしてという具体的な事は誰も知ろうとも
していませんでした。ある日突然、かわいい盛りの1歳の子供をおいて戦場に行き、海を漂
流しながらどんな思いで・・・・と当時の父の気持ちに気がつき、毎日泣きながら夢中で船の
調査をしました。何かにとりつかれたように。
私も一度そう言ってみたいのです。父が大好きですと。生前の父を知っている人にも当たり、
瞼の父を知れば知るほど、生きていたら”父が大好き・・・”と言っただろうなと思う日々なので
この言葉を聞くと感動します。
この海軍大好きなサイトの方たちの手で”きさらぎ”の事はきっと判明する事と思います。
お父さんの御冥福をお祈りします。
Kさん(前出、女性)
2000.8/2
Sと申します。
父が、生前 駆逐艦キサラギという船に乗っていて終戦までラバウルにいたと聞かさ
れていました。
が、キサラギという駆逐艦がわかりません。
どなたかご存知の方、何かわかることを、教えてください。
私は、父が大好きですが、 昭和50年に、50歳で亡くなりました。
お願いします。
Sさん
2000.7/30
はじめてお便りいたします。
知人が掛け軸を収集してきました。書いた人は、海軍大将 八代六郎となっていま
す。
いつ頃の人なのか調べていますが解りません。教えていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
下総国結城 夏曇
2000.7/26
はじめまして。
唐突なご連絡をお許しください。
実はとある本から源田実という人物を知り、大変感銘を受けました。ちょうど命
日が来月15日であると知り、ぜひお花を供えさせていただきたいと思いまし
た。
そしてまた、もっとこの人物について勉強したいと思いました。
本日、あなた様のホームページをサーチエンジンで発見し、すばらしく充実した
内容でしたので、もしかして情報をおもちでないかと思い、メールさせていただ
きました。
そこで、もしご存知であれば、次のこと、いくつか教えていただけませんでしょ
うか。
源田実氏はアメリカから勲章を授けられたのはいつでしょうか?
源田実氏は当時どのような階級だったのでしょうか?
源田実氏はいつから国会議員だったのでしょうか??
現在の源田氏のお墓はどこにありますか?またご遺族の方のご連絡先はご存知あ
りませんか?
お忙しい中お手数をおかけいたしますが、どうかよろしくお願いいたします。
Kさん
2000.7/17
八杉さん、はじめまして。
辺見じゅん著書「男たちの大和上下」を何回も何回も読み,八杉さん、三笠さんはお名前を口にしただけで胸が痛くなるお方です。
いつか何かのメッセージを送りたいと思っていましたが、こんな形でお伝えできる日が来るとは思いませんでした。
八杉さんや三笠さんのような想像絶する体験をお持ちの方と、戦後の平和を謳歌して生きてきた人間たちが同じ日本で
何ごともなかった様に同じ生活をしているという事が不思議でたまりません。
そしてほとんどの人がその事を知らない事が不思議でたまりません。
お話したい事がたくさんあるのですが、胸がいっぱいです。
今日はとりあえず、八杉さん、三笠さんに「絶対いつまでも元気でいて頂きたい」
という事だけお伝えして失礼します。
Kさん(女性)
2000.7/13
はじめまして
私の祖父は戦時中海軍に在籍し最後はレイテ沖海戦で亡くなりました。
当然 写真でしか知りませんし人間どうしが殺し合う戦争には許しがたい思いを感じますので一部の心無い戦争マニアの言動には嫌悪感を覚えます。
しかし そんな事を微塵も感じさせないホームページでしたので メールさせて頂きました。
最近 海軍の教育に関する書を読む機会があり興味をかんじました
教えてほしい事も
多々あります
その節はよろしく御願いいたします
MM36さん
2000.7/8
私は元々ミリタリ−マニアで本質的に 兵器の持つ機能美に魅せられております。
仕事柄若い人がまわりに多く話をしていると 余にも戦争を知らなさ過ぎる事を感じます.
それはそれでとても幸せな事で 非難するつもりは毛頭ありません。
只このH/Pの趣旨には賛同いたします。
私は昭和40年生まれですから 戦後の繁栄の真っ只中に生まれたので当然
戦争のことなど何も知りません.語る資格もありません.
日本は太平洋戦争後 全く戦争を経験してません。素晴らしいことです。
しかしだからといって誰も彼もが「戦争」のことを忘れてしまうことは 危険なことだと思います。
このH/Pはそう言った点でとても意義が在ることだとおもいます。
出来ますれば「何故戦争が起きるのか」という点での項目にも力を入れて欲しいです.
軍隊を無くせば良いなどとは 私は全く思いません。それを軍国主義者とおっしゃる方も居りますが 私はそうは思いません。
主張はわかりますが 悪く言えば周りを現実的に
見ていないと思います.理想論としては100%賛同しますが‥.
凡そ近代国家で軍隊を持たない国家など あり得ないからです.国家は国民の財産と命を守るのもその存在価値にあるからです.
国民から税金を取って 挙句他国に国を取られたらその存在価値はないのですから.
今現在のわが国の周辺の情勢を鑑みると 朝鮮半島の緊張は大幅に減衰し
中国が健全な経済発展を続けるなら ほとんど心配は今の時点ではありません。
よかったよかった。
日本は島国ですから 言うまでもなく貿易立国です.海上通称路の安全確保とその安全性の維持が国家戦略の要です。
こういう書き方はすこし硬いですが
まぎれもない事実です。
そう言う意味で日本は海洋の安全を得るための海上兵力の充実こそが戦略の具現化に必要な国是です。
旧連合艦隊は本来 正にその為に在った訳です。
本質的に太平洋戦争はその使い方を誤ったと思います。
只 当時の国際情勢云々を考えると一刀両断は無理ですが‥.
(ですから本質的にという表現になるのですが‥)。
帝國海軍の艦船は 贔屓目で見なくても個艦としては世界最優秀と思います。
ちょっと日本人論になりますが これを戦略レベルと対比して見ないところがいかにも
日本人的だと思います。
昭和15年までの迎撃思想としての戦備としての連合艦隊は
最優秀として良いのですが 実際の16年以降の航空主兵に全てひっくり返されてしまい
現実に即しえなかったところに悲壮さが凝縮していると思います。
ここから先はこのH/Pに携わっている方々の方がお詳しいとおもいます。
陸軍主導の軍部独走が日中戦争(宣戦布告がないので敢えて言うと支那事変)に
始まる亡国への路を招いたとすると その本質は軍部が高級官僚の組織と考えるなら
政府の意向を無視する官僚の独走が引き起こした暴挙であったと思います。
事はそう単純ではないのですが なぜか大蔵省(呼び名が変わりましたが)を
思い起こします。
本質はいっしょですから。
こういった歴史の検証を盛り込んで反省材料として人々に膾炙できれば
もしくは伝えていくことが 何より慰霊になるのではと 思います。
それを裏付ける生きた証言を大切にしてください。
尚、私の意見は 只単なる個人的意見に過ぎません。正鵠を得ているとの
自信もありません。
同時に全くの的外れとも思いません。
軍備云々は 海洋貿易立国として洋上護衛兵力は国際社会において 必然の
ものであると言っているだけです。
自衛隊が令外の官であることは 日本国内だけ
が対象であれば 日本だけの問題で良いのですが 近隣諸国の変化と根本的な
国際社会の中の日本を考えると そろそろ結論を出すべきとおもいます。
その為にも歴史的な考察とその反省に基づいた戦争の記憶を良い意味で
大切にしてください。
Billy
2000.7/5
初めまして、
知りあいに自衛隊出身者がおりますので、
興味を持ったものです。
すいません。突然の質問で失礼します。
一つお伺いしたことがありましたので、
大変非礼おゆるしください。
旧海軍の軍事拠点だった佐世保の針尾鉄塔が
払い下げ対象となっていると小耳に挟みました。
これは本当なのでしょうか。
誰かご存知でしたら、教えていただけると幸いです。
Rさん
2000.7/2
こんにちわ。
急だけど、僕はこのホームぺージの志賀淑雄さんの所に出てた杉田庄一さんの列機だった笠井智一の孫なんです。
一昨年の零戦搭乗員会にいって志賀さんと少し話した事があったので、志賀さんの事が書いてあるホームページ見つけた時正直びっくりしました。
よんでみると、僕にはすこし長かったけどおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に見ました。
おじいちゃんは、「ほーう、すごいなあ。」とびっくりしてました。
おじいちゃんは今でも志賀さんの事を飛行長と読んでいます。
この前、「零戦 最後の証言」の取材で神立さんという人が来ました。
僕もおじいちゃんの話を聞こうと着いて行くと僕も本に載せてもらいました。
また見て下さいね。
これからも見て行きたいのでがんばってください。
Mさん