奇蹟の闘病記-No.3


・ 十   日吉神社とお地蔵さん   ・

 わたしは先に書いたが、無宗教の人間である。妻もまたそうである。
 二人ともたいそう楽天的なタイプで熱心になにかに祈るという種類の人間からはほど遠い存在である。
 しかしこの時ばかりは、目の色を変えて一心不乱に祈った。
 その祈りの対象は、「お地蔵さん」である。家の近所に日吉神社という古い神社があって、その鳥居のたもとの地蔵が、子供の役病によく効くという評判を聞きつけて、さっそく入院の次の朝からお参りをする事に決めた。
 お参りにもルールがあって、観音とびら開けて初水を供え、焼香した後に「平成元年5月21日うまれ巳年の男の子、名前をなりゆきといいます、現在はしかによって、脳炎、髄炎、髄膜炎、肺炎を患っております。なにとぞ元の姿に戻して下さい。」と唱えて、般若心経を3回唱和するのである。その後黙礼してから、その場を離れるのである。
 以上の行為を47日間続ける事によって、成就するそうである。
 その時は本当に効くのかどうか、疑っている心の余裕がなかった。というかそれしか、方法が無かったのである。
 祈りをけている間、助かった事は、猛暑の年であったがために、雨の日が少なかった事である。
 カサをさしながら祈った記憶は2〜3回しかない。ただ蚊が多くて、唱和している時などは格好の餌食になった。
 たまたま地蔵盆の日があり、近所の住職が子供たちを集めて法話をしている場面に遭遇した事があった。近所のオバサンが「このひとたちは若いのに毎朝熱心に拝んでいるんですよ。こっちにきてみんなと一緒に、おかしでも食べません?ジュースもありますよ。」と親切に仲間にいれてくれた。
 なにかにつけて、人の親切が身にしみる心境であった。
 法話の内容は昔の住職の、役割についてであった。
 テレビもラジオもない時代に、ニュースが全くはいらなかった環境の中、諸国をまわっている僧侶というのは、格好のニューソースであったという話。子供はそんな話には全く無関心で、もっぱらお菓子とジュースの方に気が行っていた。
   しかし結果としてはこの地蔵に頼ったおかげである、と今でも確信している。


・ 十一    家族の愛        ・


 なりゆきの入院中世界中の神様が総動員された。まず、地蔵、これはわれわれ2人、四国のひい爺ちゃんは多賀神社、高野山の館長さん、キリスト教の信者の知り合い、義理の弟のお地蔵さん、おじいちゃんの住吉神社、各地で祈りが行なわれたのである。
 家族が総出となって、必死に祈った。今まであまり会話をしなかった、親戚までが心配になって電話をかけてくれた。
 千羽鶴というのを初めて真剣になって、折ったのもこの頃である。学友が病気の時とかに折った事はあっても本当に真心はこもっていなかったが、勝手な話自分の子供の時となったら一枚ずつに裏に「なりゆきが、必ずよくなるように」と祈願文を書いてていねいに折ったのである。
また家族も同様で、みんなが同じ気持ちで折ってくれた鶴が千どころか1500ほど集まったのである。あと、なりゆきの保育所の先生方、子供たちが折った分をいれるとゆうに2000は越す数であった。本当にこの時の皆さんに心からのお礼を言いたい。
 一羽折れば、そのつど鶴が病気の悪いところを持って行ってくれると妻が言った事を信じて涙をながしながらの作業であった。
 そして特記したいのは、四国のひいじいちゃんが貰ってきてくれた、多賀神社のお札と「さすり人形」の事である。
 お札は大きさはタテ40センチ、ヨコ10センチのもので木でできていて、家の高いところに立てておくものである。
 それと小さな紙のお札があってこちらは、患者を見下ろす高い所に、貼っておくものである。なりゆきのベットの上に貼った。
 「さすり人形」とは、二体あって、紙でできた人形で顔が描いてあった。一体は送られてきた即日に患者の患部をさすって火にいれて燃やすもの、もう一体はなおるまで、患部をさすり続けて、七週間後に火にくべるようにいわれた。
 それを信じて毎日なりゆきの頭から背中にかけて「ようなれ、ようなれ」とさすり続けていたのであった。
 そして不思議だったのは、二体めの人形を七週間後家に帰ってに火にくべた時の事である、普通、紙を火に入れて燃やすとその炎の色は黄色なのに、この時の炎の色はなんと緑色であった。これは妻といっしょに見たのでお互い「不思議やなあ」と顔を見合わせた覚えがある。事実、一体めの人形の時は、黄色で燃えたのである。
 紙の人形が吸い取ったなりゆきの悪いところが燃えているんだなあという理解の仕方しかなかった。
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おばあちゃん談話
 わたしは入院した日から宝塚の中山寺にお札をもらいにいきました。
 それと毎日歩いてる時に見かける地蔵という地蔵はすべて立ち止まってお祈りしました。
 千羽鶴も夜泣きながら折った事を覚えています。
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・ 十二  真夜中の病院        ・

 非常にショッキングな話である。
 いつも小児病棟から、図書室にむかうとき、気になる病室があった。
 夜中でもいつもあかりが点いていて、絶えず「シューシュー」となりゆきの機械と同じような音が聞こえていたのであった。この部屋の事を看護婦に尋ねると決まって生返事だったので「なにか事情があるな」と思っていたのであった。
 そこで思い切って山口先生に尋ねてみる事にした。というのは彼が、よくその病室に出入りしているのを見ていたので理由を当然知っていると思ったからである。
 「あまりいいたくないんですが・・・」で始まった彼の言葉にわたしは耳を疑った。
 「あの子もなりゆきくんと同じ症状なんですよ、治療方法もまったく同じです。ただあの子の場合、病気にかかった年令が生後3ヵ月だったために、両親も引取りにこないんです。その状態でもう3年もたつんですよ。両親はとにかく先生の方でなんとかいいようにして下さいと言っているんですよ」
 「え、いいようにというのはどういう事なんです?」
 「つまり、楽にさせてやって下さいという事です。」
 「しかしかりにも自分が腹を痛めて産んだ子なんでしょ?」
 「そうなんですけど、一緒に生活した期間があまりにも短いんで共有した、思い出が全くないらしいんですよ。ヒドイ話でしょう?だからお父さんたちみたいに一生懸命になっている親の姿をみるといつも、この子には祈ってくれる人が一人もいないんだなあと、つくずくかわいそうに思うんですよ」
 そんな親がこの世にいる事自体、ショックだったが、必ず治癒してみせるという、意気込みで治療をしている、山口先生のひたむきな姿勢に頭が下がった。
 結局、その病室に入る事はなかったが、いまでもこの子は機械のポンプによって「生かされ」続けているのであろうか。


・ 十三      焦り        ・

 一番つらかった時の事である。
 麻酔の量をどんどん減らしていき最後は一日に注射器の4分の一の量にまで減らしていった。この量では、だいぶ麻酔からさめて自分で呼吸できるに十分な量である。
 だからもうしばらくすれば、自分で呼吸し始めるという期待感が大きくなっていったのである。
 常に山口先生から言われていた事であるが「目覚めた時の、始めの第一声はなんでしょうね?」というのがあった。「だいたいその言葉の内容で症状と、知覚機能がどこまで守れたかが判断できるんですよ。
 こればっかりは、開けてビックリなのでなんとも言えないんですよ。」と非常にスリリングな事を言っていた。
 こっちはそんな心境ではなかった。もしも、麻酔の前の状況と変わらなかったらどうしようと、イライラして待っていたのである。
 それがついに麻酔の量をゼロにしても、なかなか起きてこなかったのである。
 先生や看護婦さんの表情で明らかに彼らもまた、起きてこないなりゆきに対して焦っているのがよくわかった。話し方がなんとなくぎこちないのである。
 おそらくこのままずっと起きる事無く、植物人間になるかもしれないという共通の思いがあったに違いない。
 先生も最初は「だいじょうぶ、起きてきます」といってたものの、麻酔をゼロにしてからの三日間は、回診に来てもほとんど無言状態であった。
 ただなりゆきの手をとって、二、三回上下に振って、クビをかしげながら出ていくのであった。
 こちらもあまり聞くのは、先生を苦しめる事になるので聞かないようにしていたが、一度だけ感情むきだしで聞いたことがある。
 「先生、うちの子はいったいなんだったんですか?これじゃあまるで先生たち医者のモルモットじゃあないですか!こんなに小さいのにたくさんのパイプをつけられて、いろんあ薬を打ち込まれて・・・」と。
 「おとうさんモルモットなんかじゃないですよ」
 「でも実際この子の臨床データはいろんな大学病院で今後使われるわけでしょう?」
 「そんな気持ちでこの子に携わってはいません!」
 議論にならない議論であった。言いながらも自分はなんとひどい事を言っているのかと悲しくなっていた。
 山口先生あの時は本当にすいませんでした。
 看病が終わって、妻と交替したのち家に帰ると、まず玄関をあけたときに、なりゆきの靴が一組、並んでいた。
 「もうこの靴を履くこともないんだなあと」思うと、主人のいない靴を前にして、大声で泣いたものであった。
 いつも登り下りしていた階段、「みてて、とべるよ!」といって、ジャンプしていた車庫の屋根、かがみこんでは丸虫をとって、走って持ってきてくれた雨水のパイプ・・・どれひとつとっても、なりゆきの元気な姿とオーバーラップされてきてならなかった。
 近所の子が縄跳びをしているのを羨ましげな目で見ていたのを覚えている。
 ヒットソングの歌詞で「なんでもないようなことが、しあわせだったとおもうー」というのがあったが、まさにその心境であった。
 このころ町内会で企画した「古曽部まつり」という祭りがあり、われわれは役員だったのでジュース係を担当させられていた。それが「子供がこういう状況であるから辞退させてください」と町内会長に言ったところ「担当はきっちりやってください、うちの子も小さいとき大きな病気になったことがありますよ」と話をそらされてしまった。「まつり」どころの心境じゃあないんです。とにかく行きませんので。」と半分口論になって、結局行かずじまいであった。
 まつり会場は「湯浅グランド」といってたまたま病院の駐車場から見えるところであった。その花火と盆踊りの音が、夕方聞こえてきた。
 「本当なら、なりゆきと一緒におまつりに行ってジュース係をやってるはずやのになあ」と思い「みんなしあわせそうだなあ」と羨んだものである。10時ごろまで続いたまつりの音を、まるでこの世のものでない宴のような気持ちで聞いていたのである。
 妻もこのころが一番辛かったらしく、いつも気をまぎらわすためにわざと鼻歌を歌っていたのが、その鼻歌も消えうつむき加減に話をするようになっていた。
 彼女も私同様、家に帰るのがそうとうつらかったらしい。
   なりゆきが発病前に半分飲み残したカロリーメイトがそのまま冷蔵庫に置いてあった。冷蔵庫をあけるたびにこれが目に入り、涙がでるそうである。
 ソファーの上にはなりゆきが、天神山図書館で読もうと思って借りてきた本が置いてあって、「なーくん、この本読みたかったんやろなあ・・・」と思うと辛くて辛くてならなかった。
 それでいつも家に帰らずに、家族待合室という所で毛布を借りて、ベンチの上で寝て朝を迎えていた。おそらくわたし以上に家での思い出があるためであろう、決して帰る事はなかった。
 夫婦の会話も最初のころは「大丈夫かなあ?」「絶対大丈夫よ」であったのが、「大丈夫かなあ?」「・・・・」と無言になり、そしてこのころはお互いに顔をあわせても無言であった。
 なりゆきの枕元に、いつも大好きだったチョコレートとオレンジガムとグミの実が置かれてあり、まわりにはよくだっこして一緒に寝ていたゴマちゃんのぬいぐるみがさびしそうにならんでいた。
 この子の頭の中では、今一体なにが起こっているのか、もう一生元に戻らないのじゃあないのか、という不安な気持ちでなりゆきの顔を覗き込んだものである


・ 十四      奇跡        ・

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9月8日 発病から3週間、
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 最初に、動きがあったのは、夕方お弁当を食べている時になりゆきの足の指が、「ピクッ」と動いた事である。まちがいなく動いた。
 看護婦さんに確認したが彼女は見ていなかった。
 わたしはあまりの驚きで弁当箱を落としたほどである。「やった将来のJリーガーの誕生だ。」と思った。
 次の日の夕方に、なりゆきの手をさすっていると、「ピク」と、ゆびが動いた。昨日は足で、今日は手か、ということは、脊髄は守られたんだなあと勝手に素人判断した。
 次の日は朝から手がよくピクピク動いていた。ただおととい動いたはずの足はまったく動かなかった。
 「たしかにおとうさん、足が動くのを見たんですか?足は末端ですので一番覚醒が遅いはずなんですがねえ」と先生に言われたが「まちがいなく動いたんですが・・・」と足をさすりながらもそう言われれば自信がなかった。
 このころ酸素と窒素の含有量の変更がじょじょに行なわれていた。普通の空気は1:4で酸素がすくないのだが、ずっとその逆の4:1の空気を送っていた事は前に述べたとおりである。その比率を酸素3、窒素2に変更した。つまりふつうの空気に一歩近ずけたのである。
9月10日
 だいぶん、手が動くようになっていた、指だけではなく腕自体をお腹のうえにやったりこぶしを握り締めようとしたり、そのつど「お、また動いたぞ!」とおおきな声で妻と喜び合ったものである。「なーくん、がんばって」と妻が泣きながら手をさすっていた。
 9月11日
 顔の動きに変化が出てきだした。
 ほっぺたと眉がピクピクと動いたのである。
「おー、顔が動いた!」とにかくどこかが動くたびにお祭騒ぎであった。
 9月12日
   空気の比率を酸素2、窒素3に変更した。また一歩普通の空気に近ずいた。
 口の中の舌が、吸入パイプがよっぽど邪魔らしくてチロチロ動きだしたのである。
 紫色の抗菌剤を塗られた舌がパイプの感触をたしかめるようにじょじょに活発に動きはじめたのである。
 9月13日
 空気の比率を酸素1・5、窒素3・5に変更した。かなり普通の空気に近い数値だ。
 そしてこの日の夕方、待ちに待った瞬間がついに起こった。
 「ブファッ」とクジラが海面に出たときのような大きな音がしてついになりゆきが自分で息をしたのであった。
 「やったあ!息をした!なーくんようがんばった、ようがんばったなあ、看護婦サン、息をしましたよ!」
 「本当ですね!よかったですねえ、先生をすぐ呼んできますので待っててくださいね」
 「本当だ息をしはじめましたね、よかったですねえおとうさん」
 「ハイ!一時はもう呼吸しないでこのまま目覚めることなく、一生をすごす覚悟ができていました、よかったです。ありがとうございました」
 息をはじめたとたん、手と足の動きが急に活発になりだした。
 自分の呼吸のタイミングとは無関係にパイプを伝わって空気が送り込まれてくるのがよほど苦しいのか手足を、バタバタしはじめたのである。
 足もこの時はじめてまともに動きはじめた。
 両目がゆっくり開いた。まだロンパリのままであったがとにかくうれしかった。
 「おはよう、なーくん!わかるか、おとうさんやで」泣きながら話し掛けた。まだ目の焦点があわないらしくて、ボウッとしたうつろな目であった。まだわたしを認識はしていなかった。
 ますます口の中のパイプを取ろうと舌を激しくうごかしはじめた。
 「おとうさんたち、口のパイプをとる処置をしますので部屋を出てて下さい。」
 2時間後
 「どうぞ、処置が終わりました入ってください」
 ドキドキしながら、病室に入ったのを覚えている。
 一番めについた口のパイプが取り外されたなりゆきがそこに横たわっていた。
 麻酔でねむっているらしく静かな寝息をたてていた。かわってポンプの「シューシュー」の音が消えていたのである。
 この寝息はこの子の意志でたてているんだなあと思うと、なんだか全快したような気分になった。
 「なーくん、パイプ苦しかったろ、もうないよ」
 先生が言った「さあ、今度は麻酔からさめて第一声になにを言うかですねえ」と
 夜、麻酔から醒めた。
 あいかわらず目はロンパリでどこを見ているか定かではなかったが、「おとうさんやで、わかるか?」といったら、大きく首を振っていたが、首がまだあかちゃんのようにすわっていなかったため、「ガクン」とうなだれていたままだった。
 しかしわたしをおとうさんと認識できたことには間違いなかった。
 「ヒイマ、ナンヒー?」と急になりゆきがしゃべった。
 「なに?なーくんなに?」と真剣に解読しようとした。
 「オホーハン、ヒイマナンヒー?」
 「『おとうさん、いまなんじ?』や、ついにしゃべったぞ」
 「なーくん、7時半やわかるか!」
 「ハンハーク、ハヘタヒ」
 「なに?なんて?」
 「ハンハーク」
 「ハンバーグか、わかったいくらでも食べさしてあげるよ」
 「いま、どこにいるのかわかるか?」
 「ははふひ」
 「高槻といってるよ」
 とにかく看護婦さんの制止もきかずに、つぎつぎと質問した。涙がボロボロ出た。
 「話しするのは明日にしてください、疲れてますから」と看護婦さんが言ったので、話しはやめにして、横で看護した。
 「よかったなあ、話しができて。」
 「本当、まだ発音は悪いけど思考は前のままだわ」と今までふさぎこんでいた妻もうれしそうであった。
 いままで単なる「物体」であったのが、会話ができたことによって初めて「人間」と認識できるようになったのである。
 その日の夜中、急になりゆきが大きな声でわめきはじめた。言葉の内容はまったくわからないが、なにか不満があるらしい。
 看護婦さんを呼んで理由をきくと、かゆいところがあっても以前のように思うように手が動かないので、もどかしくて大きな声をだすのだそうだ。
 その時のなりゆきの目を覗き込んでみたが、まったくどこをみているかわからない目つきであった。声を出しているときはわたしを、おとうさんと認識できなかった。
 とにかくいろいろなストレスがたまるらしく、一番はがゆかったと思うのは自分の言った単語が発音が悪いためにわれわれに理解されないことである。
 今までは一回言ったらみんな理解してくれていたのに「なに?」「なんて?」と何回も聞かれるので最後はいやけがさして大声をだすのである。
 目が覚めてから、2日ほどして集中治療室から一般の病室に移動があった。
 前の移動ほど距離がなかったことと、パイプ類が少なくなっていたことでだいぶ楽であった。
 なりゆきをわたしがだっこして、6号室に移動した。
 その時の体重の軽さといったらなかった。
 元来、健康体で他の同年代よりは一回り大きかったのに、持ちあげた時ミイラのような感じであった。
 それに加えて、両手両足、首がダランとなっていたので、それを見た妻は「なんてかわいそうな姿になったんだろう・・・」と嘆いていた。
 わたしも、意識が戻って、口もきけるようにはなったものの、今後普通の子供のように走ったり、運動したり、物を持ったりできるようになるのかと不安であった。
 そのことを看護婦さんに言うと「這えば立て、立てば歩けの親心ですよ、このあいだまでは意識が戻りさえすればいいと言ってたじゃあないですか、これからですよ!ガンバリましょうよ!」と励まされた。


・ 十五      支え        ・

 ここで特記しておきたいのは、武庫川の「はるかちゃん」という顔も知らない小学2年生女の子の事である。
 いつも山口先生はなりゆきの病状の事を聞いたとき、彼女の名を出してわれわれ夫婦をはげましてくれたのである。
 彼女も麻疹からの派生で同じような炎症をおこしていた。
 ただなりゆきより、比較的軽い症状で「脳炎」と「肺炎」だけであった。
 ただ彼女の場合は連れてきたタイミングが遅かったのである。
 病院に運びこまれた時にはもう脳はパンパンにふくれ上がってでどうしようもなかったそうである。西宮から国道171号線で渋滞の中を救急車で運ぶ時間が致命傷となったそうだ。
 彼女もまた、大急ぎで両親の許可をとる暇もなく麻酔薬ラボナールで眠らせ、なりゆきと同じような治療を施したそうである。
 眠らせてから起きるまで約3ヵ月ほどかかったが、いまではリハビリをしながら元気に車椅子で小学校に通っているらしい。
 やはりその子の両親も起きてくるまでの3カ月間は、毎日祈りながら悲痛の思いで待ち続けていたらしい。
 最初に起きた時の第一声はよく聞きとれない言葉で「ウンチ」と言ったそうである。もともと「ウンチ」という言葉が好きだったそうである。
 知能のほうももあれだけ脳がはれていたにもかかわらず、損なわれてはいなかったらしいくて、ただ言語だけがちょっと、不自由だったそうだ。
 しかしこの子の存在が、どれほどわれわれを勇気付けたかはおそらく「はるかちゃん」本人も知らないことであろう。
 人間というものは目標が無ければ悪いように悪いように考えこむものである。本当に彼女がいなかったら、われわれの神経はどうなっていたかわからない。
 「はるかちゃん」とそのご両親のかた、本当にありがとうございました。


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