私は昭和60年代に大学を卒業して、当時四大証券といわれた大手証券会社に就職し、
時代はまさに日本国中がいわゆるバブルと呼ばれる真っ只中を、証券業務に従事していました。
今、平成12年、あの絶対的信頼を誇った銀行でさえ倒産を余儀なくされる中、バブルを作った張本人である、銀行、証券、不動産、建設業界の当時の実態を一部でも投資家に知ってもらうのが私の責務と考えております。
その中のお伝えできるのは証券業界のみではありますが、それを知ってもらう事により、他の業界も推し量っていただけると確信しております。
記述中、専門用語もでてきますが、できるだけ注釈入りで分かりやすく書くつもりですので、ご理解ください。
全部で76篇ありますのでご用とお急ぎでない方はごゆっくり読んでみてください。
吉田 兼行を見習い、つれづれなるままに書いてみました。
本文に行きます!!
親の生き死により達成率(本文より抜粋)
「営業課長、投信どうだ?少しはつまったか?」
「支店長、実はちょっと私用で抜けたいんですが」
「なんだと、ふざけるなよ!理由はなんだ?」
「実は妻の母親が昼すぎに死にまして、外で妻が待っているんです・・・」
「バカヤロー!!それがどうしたんだ!!
出ていくなら数字出してからにしろよ、それぐらいの事はわかるだろ!」
筆者がこの業界をやめる決意をした最初の光景である。
崇高な人間の命を前にしてもなお支店の数字を追求する支店長。
それに服従せざるをえない、営業課長。
彼は自分の義理の親の死を昼すぎにすでに聞きながら、七時までもくもくと株の仕切りもこなし、オープン投資信託もこなしていたのである、そしてさすがに最後のクローズド投資信託のつめの時にたまらず告白したのであろう。
その間、何回か奥さんから逼迫した電話があった理由がやっと全員に理解できた
結果は鼻であしらわれて、とにかく仕事をしてからだという論法。
この時われわれ課員全員がこの会話を耳にして「バカヤロー」の次の言葉は「そんな大切な事はもっと早く言え!」の聞き間違いかと耳を疑ったのであった。
しかしそうでないとわかって「なんとか一分でも早く課長を開放してやろう。」という気持ちになり、それこそ全員一丸となって投資信託の募集に初めて真剣に取り組んだ事をおぼえている。
そのかいあって残り6000万円を一時間あまりで消化したのである。
終わってから営業課長が「みんなありがとう」と言って出ていったた時、充実感といいようのない虚無感が支店内を包んだ。
この話はすぐに他の支店にも伝わり、今だに伝説として伝わっている話である。
人間というものは自分が想定した限界以上の言葉にはすぐに反応できないものである。
この時に居合わせた営業マン全員が「バカヤロー」の単語に自分の耳を疑った。
今、目の前で起こっている事がはたして現実なのかどうかの判断に苦しんだのである。
直後に課長代理が全員を集めて「みんな聞いてのとおりだ、しんどいのはわかるが、乾燥したタオルから水を絞りだすようにして、100万ずつでも積み上げて課長を開放してやろうや」という言葉が今でも耳に残っている。
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2000年12月20日出版しました
タイトル 証券マン 社外秘日誌
サブタイトル 儲からないにはわけがある!!
著者 相場 昇(あいば のぼる)
出版社 情報センター出版局
定価 1400円(税別)
内容は「大阪弁で語る!証券会社の舞台裏!」 「抱腹絶倒!客とのやりとり」
「そこまでやるか!金融機関!」ってなものです もう10年経って時効ですので何だって書いちゃいました!
ぜひ読んでみて下さい!!
詳しくはインターネット書店 紀伊国屋WEBへGO!! (購入もここでできます)
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