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<457> 主力戦闘機!?

■沖波 ■1999年12月13日 月曜日 12時47分29秒
すごいすごい!それは初耳ですネ!
でも、空自って、戦闘機はアメリカ製だと、何式とか付きませんよね〜。それって国産なんでしょうか?

ところで、父の話に興味を持っていただき、有難うございます。
もっとも父は、伊勢に乗っていた頃の話はよくしますが、南方にいた頃の話は、思い出したくないらしく、あまりしないのです…。
いた島は、マロエラップ(タロアとも呼ぶ)です。
島全体が吹き飛ぶと思われるほどの恐ろしい艦砲射撃のあと、上陸を待ち構えていたようですが、結局米軍は上陸せず、飛び石のハザマに置いていかれてしまったわけです。
その後は、たまに爆撃があるだけで、飛行場は常に整備されていたようですが、ごくごくたまに偵察機や大艇が来る以外は、ほとんど何も無かったようです。
補給も、全くといっていいほど無く、わずかな畑を作ったり、それでもトカゲとかは多かったので、何とか生き延びたそうですが、復員の時には、完全に栄養失調になっていたそうです。
オヤジは30過ぎから頭が薄かったですが、これは栄養失調のせいだから、お前たちは大丈夫だ、と言っていました。
確かに、52歳の兄貴も、47歳の私も、今のところ、大丈夫です(笑)。
復員は、空母「鳳翔」が、終戦の半年ぐらい後に来てくれたそうです。
と言うわけで、あまり陸戦隊の話は、今でもしてくれないので、確かに特別陸戦隊と、警備隊の違いなど、僕も聞きたいと思ったのですが、
まだ聞けていません。陸戦隊に関する著作も、ほとんど見かけたことが無いので、何かありましたら、逆に教えて頂きたいと思っています。
実際、上海に言ったときも後詰で行ってるし、そのあとはずっとマーシャルに置き去りにされ、うちの父は、敵に向かって発砲したことが、
一度もありません。従って、終戦まで、アメリカ人を見ることは無かったようです。よって、戦犯事件なども起きなかったのは、ウェーキと違って、幸運だったと言えると思います。
武運が無かったという考え方もありますが、必死で行きぬいて、僕らを生んでくれた父を、少なくとも僕は誇りに思っています。
既に80代半ばにして、未だに毎日煙草をガンガン吸うし、僕が遊びに行くと、タバコを一箱くれます。恩賜の煙草…??
当然、甲種合格の男子が、煙草くらいで死ぬものか!と、意気軒昂です。
また、何か話しが聞けたら、ご報告します。
mail : <yoshihirom@pep.ne.jp>

このメッセージには1つのレスが付けられています。

<463> 言葉が見つかりません・・・ <志賀フリーク高橋> ■1999年12月14日 火曜日 03時39分30秒
   <464> 有難うございます <沖波> ■1999年12月14日 火曜日 11時01分34秒
      <467> 不思議な話 <志賀フリーク高橋> ■1999年12月15日 水曜日 02時18分49秒