1995年1月17日 神戸に震度7.4の直下型地震がありました
早いものであれからもう5年の歳月が経とうとしています
今、平和なときの中で、本当にあんなことが実際あったのか?と自問自答さえいたします
あの時の地面の揺れ、喧騒、恐ろしさ、寒さ、ヘリコプターの爆音、物が燃えるにおい、早く何かしなければというあせり・・・
五感で感じたすべたが風化する前に伝えたいと思い、筆をとりました。
自然の力による物理的な破壊の他に人間の一番「きれいな面」と「きたない面」を同時に見たように思います
その中で、わたしの体験した人間の「きれいな面」だけをつづっていこうと思います、なぜなら「破壊」や「死傷」「きたない面」を書いていたらあまりのつらさに筆が進まなくなっていました
あくまでも一側面のみですが、人間の「きれいな面」を語ることによって、災害のひどさ、その災害に直面してもやさしい「人間」という生き物、そして私の持論の性善説などが伝われば幸いです
そしてなによりももう一度同じ災害があったときの知恵として、覚えて欲しい・・・
どこまで再現できるか、はなはだ心もとないですが、少しづつ書いていきます
建物の重さと、炎の熱さで亡くなった6500名の人々へ祈りを込めて・・・・
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1995/1/7 AM 5:46
神戸市東灘区御影
神戸市はご存知の方はおわかりでしょうが、北に六甲山という屏風のような山が海岸線に沿ってあり、海と山に挟まれた東西に長細い街です。
昔、米軍の爆撃機が、「日本で一番空襲しやすい街」といわしめたほど横に長い地形です
なぜなら、一回編隊が通りすぎるだけでいいから、ぐるぐる回る必要がなかったのです
また当然坂道が多くて、私たちは子供のころ「神戸で道に迷ったら、おしっこをしなさい。流れる方が南だよ。」と教えられたほどです。
この地形が今回の地震に対して2次的に災いとなりました
いえあゆる救援物資が東西の両側からしか来ないという点です、それと標高の高い北側(六甲山の中腹)には届きにくかったのです
交通の便は南北に狭い街を、北から順番に「新幹線」「山手幹線道路」「阪急電鉄」「JR」「国道2号線」「阪神電鉄」「国道43号線」「阪神高速道路」とひしめくように並んでいます
東西に伸びた街の東から順番に、「東灘区」「灘区」「中央区」「兵庫区」「長田区」「須磨区」「垂水区」そして六甲山の北側に「北区」「西区」があります
わたしは、その中の一番東側、「東灘区」で今から書いていく出来事を体験いたしました
あとでわかったことですが、一番の激震地域でした
目次
● ボーリングのピンってこんなに大きかったんだ!
● いつもあったよ、テレホンカード
● 新聞はいりませんか?あったまっていきませんか?
● 信号なんてなくても平気
● ぼく、牛乳とパンだよ
● お店の中のもの、こんなときですから持っていってください
● 痛くても平気!
● ホカロンいりませんか?
● 茶髪だってがんばるよ
● 名司令長官、体育の先生
● 1/17はアウトドアの日だ!!
● みんな、西宮までもう少し!!
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