お便り、ご質問の部屋

ここは今までにいただいたお便り、ご質問のコーナーです

いただいたメールはすべて実名でしたが許諾をいただいていませんので仮名にしてあります。
実名を出してもよろしければメールをいただければ光栄の至りです。

2002.12.6


当方、戦史を研究しています。

昭和17年2月1日、マーシャル諸島に来襲した米第8機 動部隊に対し所在の陸攻5機を率いて反撃し、身づからは被弾したため反転して空母 エンタープライズに体当たりを試みた中井大尉(兵63期)の最後について、日本側の 目撃者がないため、同艦の戦友会と連絡、目撃者を探して貰い詳細を知りえました。

この関係で、その後も同会と連絡を緊密にしていますが、先方から映画を作る予定が あるので、大戦中エンタープライズの攻撃に参加された生存者を探して欲しいとの依 頼が来ています。

同艦は日本の空母14隻と渡り合っています。

どながか、ご存知の方をご紹介いただけませんか。

よろしくお願いします。

なお、当方、松永市郎氏の「先任将校」を米国でEncounter at Sea という題名で出 版したときの共著者(訳者)です。

 

神奈川県 Sさん


 

2002.12.2

 

初めまして、

私の氏名住所等は末尾に記載している通りです

私は昭和2年2月14日生まれで現在75才です

私の友人から本日貴HPが届き感激すると共に

改めて当時を想い起こしている所です。

 

貴台のHP冒頭の「戦争否定派」論文全く同感です。

幸いにして、私は戦地に行って人間を殺してはいません

又、戦場の悲惨さを経験したこともこの目で見た事もありません

然し、当時多くの上官から支那(当時の言葉)大陸

南方方面の悲惨な戦場に赴き実際戦った人の物語を聞かされました

結論的には、戦地では相手を殺さなければ殺される

この大原則があります(この事は理解出来ると思います)

相撲でも相手に勝たなければ負ける、と同じ事です

戦争を始める、始めないではなく、戦場での話です。

 

私は既に余命幾ばくもない高年齢になっていますが

未だ、この大東亜戦争がどうして始まったのか真の原因を掴んではいません

地球を宇宙から傍観する神様的な存在の人(正しい判断をする人)

が居たら、日本の国策が何時頃から狂い始め誰の指導者でこの様になったのか、或いは、日本には落ち度はなく当時の相手国に原因があったのか

この辺の真実を知りたいのですが未だに納得していません。

子供心に、只漠然と、A.B.C.D包囲ラインがあり資源のない日本はこのままでは自滅するしかない「窮鼠猫を咬む」の想いで連合国に宣戦布告した。

と この様に理解させられていました(昭和16年当時)

然し、この辺の正確な原因解明追求は絶対無理でしょう

 

それで私も子供心に、日本国の存亡にかけて我が身を省みず日本国民を守らんが為16才にして海軍に身を投じたのです

昭和18年5月、山口県防府通信学校にて通信術を勉強し翌19年2月卒業と同時に海軍陸戦隊に編入され潜水艦でアメリカ西海岸に上陸し一時的にせよ日本の軍隊が米本土に上陸したと云う記録を残さんが為、千葉県の館山で夜間訓練を受け、以後戦況悪化に伴い潜水艦が消滅したので急遽航空機に切り替えられ、B29発進基地サイパン、テニヤン、グァムに強行着陸し、特殊吸着爆薬にて破壊する任務を背負わされ館山、木更津、青森県の三沢の各航空基地で血の滲むような訓練を受け、出撃は20年7月の満月の夜でしたが

アリューシャン方面から南下した敵機動部隊の艦載機の攻撃に遭い

瞬く間に我が方の航空機は炎上してしまいました。

仕方なく日本国中から使える飛行機を集め8月の満月を期して出撃すべく待機していましたが、15日終戦となった次第です。

当然、燃料は片道分しか積んでいきませんし、強行着陸ですから再び飛び立つ事は出来ません、死ぬことは必然的に分かっており「神風特別攻撃隊第6御盾隊」と命名される予定でした。

この為、当然の事ながら若冠18才の身で父母兄弟に対し遺書を

書きました

その内容が、貴台HP記載の文面と非常によく似ています

誰しも考えることは皆同じだったんだなあーと痛感しました

父母兄弟に対しての報恩謝辞、死に場所(私はテニヤン)男子の本懐、靖国の桜花、等々 殆ど似たり寄ったりです。

 

実際遺書を書き、死の寸前までいった者として、この遺書は私の心深く突き刺さる想いです、当時の心境に還りました。

17〜8の若い身空で私の同年兵(海軍通信学校同期生)の多くは昭和19〜20年の台湾沖、フィリッピン沖の航空戦で散華し今、靖国の社頭で日本国の永遠の繁栄を信じ長い眠りについています。

「戦争反対」「平和」誠に素晴らしい結構な言葉です。

これに異論は全くありませんが、現在の平和日本を築いた戦友の

霊に報いるためにも、もう少し「国防」に力を入れたいものです「自分の国は自分で守る」こういう考え方は間違っているのでしょうか、もう第3次世界大戦は始まっています(テロ戦)

今までとは違い今後はテロで少人数で戦いを挑んでくるでしょう

核兵器もさることながら、麻薬、細菌兵器で知らず知らずの裡に

一般国民が冒され死んでいくのではと思っています。

皆が気付いた時にはもう既に手遅れになっているのではと危惧する今日この頃の世相です。

 

福岡県 Nさん


2002.11.24

 

32歳の会社員です。

今、職場で英語が必要でこの時間も勉強しています。

さまざまなストレスが蔓延しているこの現代ですが、戦艦大和の関係者の本、またテレビなどでの話を聞いていると、命あるかぎりなにかに努力し続ける姿勢が大切なのではないかと思いました。

生きていられる自由。

この喜びを噛み締めなければならないと感じます。

 


2002.11.13

 

これは個人的な発問ではなく、皆さんの考えてもらうために出したのですが、用件は、9月中旬に発言した若いキリスト者を自称する方の「英霊」発言をめぐる問い合わせです。事前に検閲されて消去された可能性もありますから、再度、伺いますが、靖国の「英霊」を祭ることがどうしてキリストと矛盾しないのか。この点について彼女に伺います。

これは本質的な問題です。日本最大のプロテスタント集団(戦前、政府で強制的に合同された諸派の集団)も、日本のカトリック教団も、彼らの戦争責任(つまり、国家神道勢力に服従した過去の罪)は告白しております。

第二次世界大戦はたしかに植民地支配をめぐる日米戦争。が、周辺アジアに対しては明白な侵略戦争でした。2000万人以上の非戦闘員の犠牲者を隣国ならびに周辺地域から出しております。明治維新と同時に欧米並みの植民地政策を模倣したのですから、当然といえば、当然です
が、悪は悪です。さらにまだ歴史にはなっておりません。被害者がまだまだ健在です。この点をいったいどのように正当化するのか。

それがキリスト者を自称する方の言葉なのか。

カルトめいた集団がプロテスタントを自称する方に出てきております。
これならば分かりますが、果たして、いかなる教派に属する方なのか。知らない人が見ると、彼女の考え方がキリスト者に一般的と思われると困るので、掲示をお願いいたします。

 

前述Lさん


2002.10.24

 

 いつもお世話様です。仙台の小野寺善子です。以前海軍省の英国駐在所の所在の確認、及び駐在員の方々の情報を頂きましたが、そもそも英国駐在所の役割はどのようなものだったのでしょうか?現在、私のマンガの中で説明するに至りハタと気がつきました。

ご存知のかたがあればどうぞ情報をお願いいたします。

それと、昭和5年のロンドンでの軍縮条約に当たり、海軍省英国駐在所はどのような役割を果たしていたのかも教えて頂ければ尚幸いです。

では。

 

仙台の小野寺善子さん


2002.10.13

 

私も合調法でとんつーを習ったのですが、
イのいとーは、伊東と聞いていましたが、そちらの
伊藤が正しいのですか?
ちょっと疑問に思ったもので・・・

 

Eさん


2002.10.11

 

 毎度たびたびお邪魔します。仙台の小野寺善子です。

今回このサイトのご主人に許可を頂き、私がマンガ家として現在手がけているテーマをお話し致します。

テーマは「同性愛」です。戦前の海軍と言う男社会を舞台に、当時の日本の同性愛事情や男性の同性愛者の苦しみを描きたいと考えています。物語を現在4つ考えています。つきましては、それに関しての資料として、海軍兵学校の生徒の冬の制服と、戦艦の内部の写真などを探しています。それを扱った書物などでもかまいませんので、ご存知の方がありましたら教えて頂きたいと思います。

ご自分が兵学校生だった方からの当時の授業内容や、教官の指導の仕方、校風・・・何でもかまいませんので、知識のある方のご意見をお願いします。

加えて、当時の性事情。同性愛に対しての何か知っていることがあればやはりなんでもかまいませんので、どうぞよろしくお願いします。では・・・。

 

仙台の小野寺善子さん


2002.10.5

 

Oさんへ。私の叔父も舞風に乗組んでいました。
開戦からガタルカナルの輸送作戦で被弾後内地へ回航するまで乗艦していたそうです。
艦橋左舷の見張りなどをしていたようです。                  
駆逐隊指令は後の大和艦長有賀幸作で、中杉艦長と同時期に退艦したので、トラック島で死なずにすんだといってます。

 

Fさん


2002.9.26

 

はじめまして。私は都内の中学校に通う三年生です。(男です)
偶然このサイトを見つけました。海軍のことなどが豊富に載っており、感激のあまりです。
大東亜戦争は、日本ばかり悪くいわれていますが、私は日本は『戦争に追いやられた』と思います。戦争をしかけたのは米軍という噂も聞きました。(なんでも日本の戦艦に魚雷を撃ち込んだとか。)
私はいまいち戦争の始まった原因がよくわかりません。裏でどんなことがあったのか、など、よろしければ詳しく教えていただければ光栄です。どうか、よろしくお願い致します。

 

東京都 Mさん


2002.9.23

 

拝啓 運営者各位

 

八杉氏の闘病の報を聞き、胸を痛めております。大いなる人生。まだまだこれからもご健闘願いたい。そう切に願って病みません。

さて、本論ですが、実は素朴なことが分からないで困っております。というのは、昨年亡くなった親友のご尊父さまが1945年8月までは海軍の中佐でした。息子さんとは親しいのですが、彼にいわせると、戦争末期に大阪帝国大学の工学部にいて、海軍関係に在籍していなかったにもかかわらず、急遽、仕官として、海軍に徴用されて(?)、広島で航空機を製造をする作業を監督していたときに敗戦となったというのです。

戦後は平和な市民として、造船関係の現場で誠実に働いて、生涯を閉じました。きっと昭和と平成を生きた方々の中には多くの似たような経験をした方がいるはずですが、ふと、先日、その方の息子さんと焼き鳥屋で飲んでいて、こんな話になりました。

彼もご尊父さまとは離れて生活しておりました。それもありましてか、知らないようなのですが、彼の尊父さまは生前、何がしかの年金というか功労金を毎月政府からもらえていたのでしょうか。中佐という身分はかなり社会的に高い位置だったということですから、受けているはずですが、彼も全く知らない。戦没者の遺族の方々には政府も面倒を見たけど、生き残った方々の場合は全く知らない。そう申しておりました。

時々こちらのサイトを覗いて、戦艦大和の関連の資料を見ているというと、彼は「ならば聞いてくれないか」ということになりました。彼はインターネットを持っていないので、代わりに質問するようになりましたが、お許しください。

彼とは雑談をしただけですが、子供じみた素朴な質問を彼は出しました。彼がいうには、同じ敗戦国でもドイツと日本の場合はどうなっているのか。さらに連合国の場合はどうなっているのか。アメリカはかなり手厚い保護があったと彼はいうのですが、英国とかフランスの場合は彼は全く知りません。

国際比較は難しいかもしれませんが、日本の場合はどうしたのか。後世の若造のためにも、この辺りのことを史実に即して教えていただければ幸いです。

 

Rさん


2002.9.18

 

前略、初めまして。 私は公立中学校の教員です。 

 

 八杉康夫さんの講演や闘病の写真と簡単な解説のサイトを見て、メールいたしました。 

 先週九月十一日(水)から、二泊三日で修学旅行についていきました。 そのとき鹿児島県知覧町の特攻平和会館を訪れました。 私の住む福岡県からも四十名を超える方が特攻隊として出撃されたとのお話を館長さんから伺いました。 展示されている特攻隊の方の顔写真とお名前、出撃された日をメモしていきましたが、二十分余りの時間では十六人の方の記録を記すのが精一杯でした。

 また八月には、平義克己さんの著書「我敵艦ニ突入ス」を読みました。 アメリカのカリフォルニア州在住の弁護士である著者が、沖縄戦の際、レーダーピケットの任務で零戦の特攻攻撃を受けた駆逐艦キッドの元乗組員から聞いた話から、突入した零戦パイロットをさがしていくお話です。

 何れのお話も、戦後生まれの私が読んでいて「愛する家族や妻のために自らの命を捨てられた。その尊い犠牲の上に今の日本の平和がある。」ことを生徒たちに伝えなければと、強く衝撃を受けさせられました。

 

八杉さんは、私の手元の雑誌によると、大和の第十二分隊の所属でおられたのですね。 「タクワンを食べかけると、敵発見の艦内放送があり、接眼鏡をのぞくとカーチス・グラマンの群れが見えた。」の一節もあります。 このとき、八杉さんもどんな気持ちでおられたのだろうと思います。  

 

このところ新聞を賑わせる人を傷つけ、命さえ奪う事件が多いことか。 一人でも多くの生徒に人や命を大切にする人になるよう伝えていきたいと念じています。 講演される八杉さんも人や命を大切にするようお話しされているのだろうと予想しています。

 

思いつくままに記しましたので、話の筋がわからなくなってしまいました。  申し訳なく思います  では、八杉さんの今後のご健康とご発展をお祈りいたしまして筆?を置きます。 さようなら。

 

太宰府市 Hさん


2002.9.16

 

 こんにちは。度々お邪魔します。仙台市のzenkoこと小野寺善子です。私の名前は実名で使用して頂いてかまいません。

さて、今回の質問ですが、大日本帝国海軍の当時の規則を知りたいのです。どこへ行けば閲覧出来るのでしょうか?どなたかご存知の方がおいででしたら教えて下さい。

 

仙台市の小野寺善子さん


2002.9.14

 

こんにちは。

貴ホームページを拝見いたしました。

私は海外に留学の後、現在教育関係の仕事に携わっております。

残念ながら、貴ホームページが仰るように、「これはむかし日本が悪いことをしたときの旗だよ」と公然と教えている教員がいることは事実です。しかし、あまりに浅学の教師が多く、どの時代の戦争も「戦争は悪」との十派一からげ的発想でここの戦争がなぜ起きたのか、また、なぜ起こさねばならなかったのか等を考えようともしていないように思えます。これは海外で日本のことについて聞かれたときに何も答えられずに恥をかいた経験によるものです。

私自身、戦争を肯定するものではありません。しかし、そのように言うと、「お前は戦争を美化している」といわれます。

誰も好き好んで戦争をするものはいません。かつての日本もそうだったと自分なりに調べてみてもそう思います。いざとなったときに、己が命をささげてでも育てられ、恩恵を被ってきた親兄弟やふるさと、そしてこの国のために何かしようと思うのは自然なことです。そんな中でも、一部には悪い人や、心ならずもいけないことに走った人もいたかもしれません。しかし、そうしたことだけをとらえて、「この国は悪い」とか、「侵略だった」とするのはあまりに短絡的だと思います。まして、そんなことを教師が子供に教えるとは・・・。私も歴史が好きで自分でも今勉強していますが、歴史は、まして自国の歴史はまず、愛情と血の通うようなものを感じるように教えることだと思っています。

歴史が嫌いだという子供の大半は、暗記式でそれぞれの出来事の係わり合いを教えてもらえず、無味乾燥に感じているからです。戦争をまるで哲学的にとらえるような議論めいたことは、まず自国への愛着を土台としなければ、理屈に終り、「戦争になったら、さっさとこの国から逃げ出して、戦争のない楽園にでも住む」等と主張する利己的な子供たちを増やしていくと思います。

私はまず、英霊の方々に感謝いたします。理不尽な国際情勢の中、戦争が回避できなかったとはいえ、全力で最善の道を探そうとしてくださり、自らが生き残るより、この国と子孫の将来を案じて戦線に赴いてくださったのですから。その上で、今後の課題として、我々大人がどうすればより良き日本、また世界となるかを考えねばなりません。

愛国心=悪、戦争ではありません。それはおかしなナショナリズム思想であって、本当のナショナリズムは自らの民族の尊さを知ることをもって、他民族をも尊敬することにあると思います。これは国旗についても同様だと思います。

先人の方々に心から感謝し、本当の意味で、日本人らしい日本人、賢明な子孫繁栄がなりますようにと祈念いたします。

 

靖国神社に祭られている英霊の遺族(30代・キリスト者)Kより


2002.9.8

 

昔の海軍学校は有名だったと聞いております。 その卒業生達の情報を知り、どのような海軍兵が江田島から出たか勉強して見たいと思います。 卒業生に付き情報の得方を教えて下さい。

 

Tさん


2002.9.7

 

こんにちは。

以前、海軍省の英国駐在所の件でお世話になりました、仙台のzenkoです。そのせつはどうもありがとうございました。

迅速かつ丁寧なお答えを頂きまして、とても感謝しています。

 ところで、今回もまた質問があります。当時の海軍兵の結婚についてです。何かの本で「軍人が結婚するには大臣の許可が必要」と読んだのですが、その大臣とは何の大臣ですか?(大蔵大臣とか運輸大臣とかあるじゃないですか)それと、そんな偉い人の許可が結婚に必要だった理由は何なのでしょうか?

それだけ軍人にとって結婚は大事なものだったとは思いますが、例えば簡単に離婚出来ないようにするためとか・・・でも、当時の時世で言ったら民間人の結婚もかなり厳粛だったと思いますし・・・。

大臣の許可を得て結婚することで、軍人さんに何かメリットがあったのでしょうか?昇給するとか昇進するとか・・・?考えると色々ときりがないので、とりあえずまたお世話になるべくメールして見ました。

ご回答頂けたらありがたいです。

どうぞよろしくお願いします。

 

仙台市 ZENKOさん


2002.8.19

 

私、格闘技道場を経営しているTと申します。
去年まで極真会館の支部長をやっておりましたが、故あって辞任し
新たに蒼天塾という総合格闘技の道場を立ち上げました。
つきましては、道場訓として海軍で使われていたものを参考にしたいのですが
参考資料が見つかりません。ご存知であれば教えて頂けないでしょうか?
よろしくお願いします。記憶では「○○を律する事」などの文章だったと
思います。

 

Tさん


2002.8.16

 

すま長官へ  角です。

 

すま長官の 「零戦の会」ページ進捗状況を開き、さらに「零戦の会」ページを見ました。すまさんが9月13日までにホームページを完成すべく努力しておられることを知りました。

零戦搭乗員会の事務局長をしておられる吾妻常雄氏とは航空自衛隊当時の友人でしたので電話で連絡しました。

零戦搭乗員会の解散を機に「零戦の会」のホームページを開くということが判り、すまさんの強力なご努力で進められていることに感銘しております。吾妻氏も私の特攻機橘花のホームページを既に知っておりました。

すまさんご自身の事業のお仕事をしながら、コンテンツ作成をしておられる事は大変なことと思います。是非頑張って完成されることを念願しています。

 

元海軍大尉 角様


2002.8.15

 

はじめまして、ここ1年程、海軍に始まり 沢山の戦争の本をよみました。

最初は乱読気味だったし 軍隊に関して全く知識がなかったため 本の中で紹介されている本を探して読んでゆく方式で あっちへいきこっちへいきの感が有りましたが 多分100冊以上読んだであろう今では だいたいの概要はつかめたと思います。

その中で どう探しても見つからない本があります。

 本の中で紹介されてた本です。(きちんとメモしておけばよかったのですが) 1 鬼の1号生徒 豊田穣  2 軍港させぼ秘話  3 襦袢を着た将軍  1,2は海軍関係 3は陸軍(インパール)、関係です。

 どれかをご存知でしたら ぜひお知らせください。

 

Mさん


2002.8.4

 

八杉 様

お手紙ありがとうございました。(8/3着)

 

拝見しまして、八杉様の心のこもったご返事に深く感謝申しあげます。

確かに、3000名に及ぶ集団は大変なものだとおもいます。

そう言えば、父から大和艦上では、移動に自転車を使っていたようだと聞いたことがありました。

そして、情報に関しても今となっては、ほとんど無理な話、私のお尋ね自体

が非常識だったのです。 どうかお許しくださいますように。

でも八杉様からいただいた文面を手にして何か「戦艦大和」がググっと身近に感じられましたことは、大きな喜びでした

ご高齢にもかかわらず、時間をさいて、丁重にも返書をいただきほんとうに有難うございました。

どうか、お体を大切にされて、楽しい毎日をお過ごしされる事を心から

祈っております。

 

京都市Oさん


2002.7.24

 

はじめまして、Kといいます。私は都立高校に通う二年生です。
今年の九月に学園祭があるのですが、私のクラスでは、特攻隊を扱った劇を上演することとなりました。

ところが、セリフの中に、「前方1500、敵空母発見!など、
方角や時刻と思われる数字がいくつか出て来るのですが、読み方がわかりません。
もしよろしければ、教えてくださらないでしょうか。お願いします。

 

東京都Kさん


2002.7.24


拝啓
 時々サイトを覗いております。帝国海軍のことは面白い。

知人で戦後に某私立大学を創設した方がやはり海軍兵学校出身。

その方と親しく色んな話を聞きます。

それからご存知「坂の上の雲」。これも昔わくわくしながら読みました。司馬史観にはすべて 同意できませんが、精緻なる英雄物語。自由闊達な青春群像として愛読しました。
さて、本論ですが、実は有賀幸作氏に関心があります。彼について戦後書かれた物は文庫で読みました。世界の巨艦たる大和の艦長。過日、NHKで沈没の様子をアメリ カ側資料からも知り、刺激を受けましたが、ひょんなことから、有賀姓の方と親し しております。若い世代ですが、彼は長野の有賀(あるが)という集落の出身。そこ の本家ということでした。当然、有賀幸作氏も同じ姓ですから、ルーツは同じ集落で しょうが、本家なのか。それとも分家なのか。この辺りについて何かご存知でしたらよろしくご指導ください。
有賀家というのは侍ではなく豪農。明治維新以降、かなり立派な方々を出しております。朝鮮拓殖銀行の頭取も輩出し、第一回国会の貴族院議員も出しておりました。案外、有賀幸作氏も本家の方じゃないかと思いまして、歴史物語として知りたい。そう 希望して今回お便りを出しました。
このサイトが一番いいかと思っております。が、あまりに専門的な話なので手に余るようでしたら、海軍に詳しいサイトをご紹介してもらえないでしょうか。

なぜか、大和のプラモデルが大好きな韓国人です(笑)
よろしくお願い申し上げます。                                    
敬具 

 

Lさん


2002.7.19

 

八杉 様

はじめまして。

過日の TV朝日での「大和」に関する番組は拝見しました。

その時は、別に気にはしていなかったのですが、インターネットで拝見してふとお尋ねしてみたい気になりましたのです。

私は、京都市に住んでおりまして、59歳のサラリーマンです。

父親の本籍は、山口県岩国市でした。その末弟、沖本 竹一(大日本帝国海軍、大竹兵団出身) も、水兵長で乗艦、特攻出撃したあの「戦艦大和」で多くの優秀で、きっと骨の髄まで鍛え上げられたのでありましょう屈強な仲間達と海に散った一人であります。

当初、潜水艦乗りだったそうで、家に帰ってきても、これが最後ですと言って家をでていったそうです。

当時潜水艦は、大抵撃沈されて無事基地に帰ってくるのは珍しかったそうです。そして「大和」乗艦前は、駆逐艦だったそうです。

私の知る 「竹一」はこの程度でしかありません:

小学校5,6年生のころ、夏休みに岩国に帰って覚えているものに

おばあさんが、帰るとき必ずくれるものがありました。

「ヨーカン」です。 私に踏み台をタンスの前に置かし、タンスの上段の奥ある「ヨーカン」を2つ、3つ持って帰れと、私にくれたのを思い出します。

それと、2枚の写真です。大竹兵団で撮ったおじいさんと一緒の記念写真「直立不動の姿勢」で目はつりあがっていたように覚えております。戦前に撮った写真で、鳥打帽をかぶり笑みを浮かべたやさしそうな姿とは全く別人のようでした。

この 沖本 竹一についての何らかの情報があれば、お願いできないでしょうか?

八杉 様もご高齢で、大変な病気もされておられる御様子、無理のできないお体と察します。

くれぐれも、ご自愛くださいますように。

 

京都市 Oさん


2002.7.14

 

初めてお邪魔します。

私はマンガを描いていて海軍についての資料を探しています。

以前なにかの本で、海軍組織にはアメリカやイギリスに駐在所があったと読んだ記憶があります。特にイギリスの駐在所についての資料、写真、文献などありましたらどなたかお知らせ頂けないでしょうか。

またイギリスに何年頃まで駐在所は置かれていたのか、駐在所では毎日どんな仕事があり、何人位の人が働いていたのか、官舎はあったのか、なんでもかまいませんので情報を頂けたらと思います。

それとこの質問に関してのお返事というものは今後どのような形で掲載されるのでしょうか?私はインターネットもあまり知識がなくこのようなホームページにアクセスしたのも初めてです。

これからちょくちょくこのホームページにお邪魔してメールの回答のチェックをするということでアフターメンテほOKなのでしょうか?

無知なため全く無礼なメールになってしまいましたが、真剣に情報を欲しています。

どうぞ宜しくお願いします。

 

仙台市 zenko


2002.6.26

 

 私は22歳のフリーターです。偶然このページを見つけました。
貴方が、書かれていることについて私も似たようなことを考えております。
 ただ私は戦争を否定することは出来ません。戦争とは、国と国との国益がぶつかり合った時の最終手段であると考えているからです。
そして、戦争に善悪はありません。それを決めるのは勝った国です。
 ですから、負けた日本にも正義はあったのであり、いまのように日本だけが、戦争犯罪を犯したようにいうのは納得いきません。
 できれば、多くの人たちになぜ戦争が起こったのかということを知ってもらいたいとおもっております。

いたらない文章、お許しください。

 

生徒38さん


2002.6.25

角さんの貴重な体験記録を拝見し、感慨無量な物がありました。戦争の善悪、是非、の論争とは別の次元で、現実に日本が体験した歴史の一齣について、直接体験された角さん自身が書かれたこの手記は、大変貴重な記録だと思い、コピーを取らせていただきましたので、ご了承ください。

Sさん


2002.6.24

初めまして、須磨様。疾風というものです。

 

いつも、『大日本帝国海軍』は、拝見させていただいております。いろいろな情報。特に、海軍式モールスが載ってたことには、ものすごく喜びを感じました。

 

さて、この度は、リンクを貼らして頂きたく、メールを送らせていただいたしだいでございます。

えっと、このページです→http://members5.tsukaeru.net/hayate/index.html

お忙しいところすみませんが、ご検討よろしくお願いいたします。

それでは、またの御機会に、お会いいたしましょう。

かしこ


疾風さん


2002.6.20

 

 自分は二十歳の学生です。自分にはいつも疑問に思っている事があります。

大東亜戦争の本当の真実がわかりません。

それは、学校教育ではその当時のことを詳しく教えてくれないのと、今の教科書をどうしても信じられないからです。

なぜ、日本の教科書なのにこんなにも母国日本の事を悪く書いているのでしょうか。まるで、誰かに無理矢理書かされているような気がしてなりません。自分たちは本当にこの教科書を信じていいのでしょうか?

自分には無理です!

自分の生まれ育った大好きな国を侮辱されているような気がするからです。“教科書の教えない歴史”という本を何回も読みました。そこには自分の知らない日本の素晴らしさ、日本の無念さがたくさん書いてありました。自分はその本に書いてある事がなぜ、学校の教科書に載らないのか不思議で仕方がありません。

何故、載せる事ができないのですか?

それは、アメリカや中国の圧力のせいですか?

そしたら、自分は悔しくてたまりません。なぜ、自国の歴史に他国が干渉してくるのでしょうか?それに、その干渉を受け入れてしまっている今の日本にも納得がいきません。自分は今まで歪んだ日本の歴史を勉強させられてきたと思うと、悔しくてたまりません。

なぜ、戦後50年以上経った今でも歪んだ歴史を教え続けるののでしょうか?もう、嘘をつき続けるのを止め真実を語る時が来たのではないのでしょうか?

さらに、今の若者に戦争に対する関心が薄れたのはただ単に平和になったからだけではないと思います。それは、歴史の授業で日本を嫌いになるような教育をしている現状にも原因はあると思います。それらをすべて正し、日本の素晴らしさをこれから日本を担う若者に伝えていかなければならないと思います。

最後に、こんな事を語り合える同年代の友達がいないことを心から不憫に思います。

 

Aさん


2002.6.19

 

始めましてKと言います。質問なんですけど、自分の友達の叔父が空母、瑞鶴の艦長だったそうなんですけど。確か荒川と言うんですけど。最後の言葉とかわあるんですか。自分の叔父も戦艦武蔵の乗組員なんですけど!名前は神田だそうですけど。何か情報があれば教えてください!

お願いします


Kさん


2002.6.14

私が戦艦が好きなのでネット上をふらふらしていたところ、そちらのHPにたどり着きました。アメリカの戦艦などとの比較があり面白いと思います。各戦艦を見ていて、戦艦「大和」のところを見たときに気づいた点があったのでお知らせします。

同型艦のところに「武蔵、信濃」とありますが、正式には「武蔵」のみです。「信濃」も大和級戦艦の3番艦として建造されつつありましたが、途中で急きょ航空母艦に変更されました。理由は、「信濃」建造時に軍部がようやくもはや戦艦の時代ではなく航空母艦(航空機)の時代であることに気づいたからだと聞いております。
*「信濃」は超大型空母として進水したと・・・

*質問
「武蔵」の紹介のところに掲載されている写真で手前が「武蔵」だと思いますが、奥の船
は何ですか?なんとなく、かなり「武蔵」に似た形をしているので「もしや『大和』?」
と思ってしまったのですが・・・

匿名希望さん


2002.5.18

愛国心と親孝行は、 時代は変わっても変わってはいけないものである。

 Mさん


2002.5.5

官庁パイロットのHと申します。

 私なりの解釈で想像の域を出ませんが、零戦の左捻りこみとは次のようなものだと思っています。

    1 零戦(96戦時代からだが)は軽量のため縦の面の空戦が得意だった。
    2 ただし、空戦は単純ではなく、縦の面に横の旋回も組み合わせるものとなる。
    3 零戦のプロペラは右廻りのため、プロペラのジャイロ効果(摂動)のため左旋回の方が得意と思われる。
    4 縦の面で空戦をする場合、降下姿勢の時速度を落とせれば旋回半径を縮めることができる。
    5 速度を落とす方法としては、機体を思い切りすべらせる(ラダーを踏む)ことにより可能となる。

 要するに、「縦の面での空戦において、左旋回の要素を取り入れ、降下姿勢のときは機体の速度を横滑りによりおさえて相手の内側に食い込む。」と言えばよいのでしょうか?
 これを実行する場合、余剰馬力が充分にあり、かつ機体強度が充分にあるものでなければ効果はなく、また危険ですので注意してください。
 なお、加藤 寛一郎氏が故坂井 三郎氏から取材された本が参考になると思います。

Hさん


2002.4.29
突然のメール失礼致します。

Mと申します。
御趣旨に関係ない質問かもしれませんが、戦艦と巡洋戦艦の違いは何でしょうか。
恐らく、巡洋艦より少し大きく、正規戦艦より少し小さいのが、巡洋戦艦だと思うのですが、例えば戦前のイギリスでは、100メートル程度の戦艦があるし、逆にフッドという、長さでは大和とほぼ同じで、重量でもイギリス海軍段突トップの巡洋戦艦があります。 戦艦と巡洋戦艦はあまり明確な区別はないのでしょうか。

Mさん


2002.4.27

他の海軍関係のホームページを見ていましたら、その方は海軍士官の呼称を大尉をダイイ  大佐をダイサ 大将を ダイショウとするのが正しいとしていました。私はダイイは知っていましたが、 他の二つは陸軍同様と思っていたのですが、どうでしょうか。
ご教示ください。

新潟市 Eさん


2002.4.21

愛知県の34歳のYですが、初めてお便りします。
我々は戦争の事など知りませんが、10年ほど前から興味がわき特に太平洋戦争の事となると、TVでも本でもかじりついてしまいます。
TVゲームなどでも関連するものを買って大日本帝国の司令官となり熱中しています。
最近はそんな中で過去の事実にも目をきちんと開いて見るようになり、このHPの記事も楽しく拝見させて頂きました。
当時の動画などあれば是非見たいと思っています。

 

愛知県Yさん


2002.2.15

ゼロ戦の左捻り込みを自分でやって再現したいと思っています
情報等あればお教えください
横田基地で小型機の教官をしております
飛行時間 約5000時間です
宜しくお願いします。


Kさん


2002.2.5

はじめまして。埼玉川口に住むでとM(女性)と申します。
海軍の検索で貴HPを拝読させていただきました。
私の父は海軍で水上機母艦の 戦前「神威」戦中「讃岐丸」にのっていました。
父は8年前なくなってしまったのですが、父が残してくれた句集「南十字星」を HPに載せたところ昭和17年頃の水上機母艦の行動について問い合わせがあり ました。
私もそのことをきっかけに父の行動について詳しく知りたくなりました。
何年何月どこの島と島へ上陸したのか俳句からだけでは、詳細がわかりません。 父によりますと讃岐丸の生き残りは父を含めて知ってる限りは2人だけとと申し てましたが他に行動を共にした方がいるはずです。
どなたか情報をお寄せくださる方はいらっ しゃいませんでしょうか?
なお、父は15年神威16年から19年5月まで讃岐丸に乗り、その後は高等科 入校、舞鶴海兵団にいました。
よろしくお願いいたします。


川口市のMさん


2002.2.5

北海道に住んでいるSと言います。
僕も、戦争には反対です。
でも、過去の戦争を知らずして、本当の意味の戦争の賛否を語ることもできないと思います。
でも、僕たちもそうでしたが学校で太平洋戦争のことはほとんど習いませんでした。
僕はたまたま社会科全般が好きだったので独学でいろいろ調べましたが、やはり先の大戦はすべきではないと思いますし、日本は平和外交に徹するべきだと考えています。
このような、ホームページがあることに感銘を覚えます。

北海道のSさん(32歳)


2002.1.17

突然ですが、広島市在住の61歳の男です。
暇つぶしにと「VB(VisualBasic)」をならっています。
その課題の一つに「モールス信号」を取り上げ、 探している内に、このページに辿り着きました。
参考にさせていただきます。
(文章を自動発信し、 聞き取り練習するもの)
厚かましい話ですが、2,3教えていただけませんか。
1.長音(ー)・短音(・)に「呼び名」はあるのですか
2.長音(ー)・短音(・)の発信音の長さはどれくらいですか
3.文字と文字の間の長さ(間隔)はどれくらいですか
4.濁点・半濁点・長音などは
5.掲示板にもあったのですが(答えが見つからなかった) ひらがな・英字の区別はどうやってするのですか
よろしくお願いいたします。
ところで他の内容についても興味深く読ませていただきました。
わたしの出身が江田島なモノで、また4歳の時ピカドンに 遭遇し、終戦を迎えた過去があるモノですから。
モールスと同じく小さいときの思い出として「手旗信号」が あります(これもVBの素材にしています)。
人間魚雷の話はテレビなどで放映されたことがあり 知られていますが、もう一つ「ちょうしんき(聴診器?)」と いうのがありました。
とてつもなく大きなパラボラアンテナ風 のものを天空に向け敵のB29の襲来を探知しようとする 装置です。信じますか?
江田島は軍港呉を守るため重要な島だったようです。
最近は隣町と合併して「江田島市」にする話があります。
と同時に過去が忘れ去られる時代になってもいます。
長々となりました。よろしくお願いいたします。
末筆になりましたが貴サイトが益々ご発展されますことを 願っています。

広島 Sさん


2002.1.13

HP拝見させて頂きました。
私は、兵庫県在住の戦争を全く知らない若者ですが、すごく興味があります。
以下の文を、お便り・ご質問の部屋に乗せてください、お願いします。

私の家は代々男性が海軍で、祖父がかの有名な大和に乗ったこともあります。
ところで、このHPは年輩の方も見られていらっしゃるようなので、もしも知っている 人がいらっしゃるならと思い、一つ書かせていただきます。
私の祖父の兄について知っている人がいらっしゃれば、是非教えて頂きたく思いま す。
祖父の兄の名は『正一』といいます。
おそらく広島の方だと思うのですが、『大竹海兵團』に入團しておりました。
昭和十八年の四月に二十二歳で亡くなっております。
最期は『軽巡・球磨』に乗っておりました。
どなたか知っておられる方、いらっしゃれば是非教えて下さい。
お願いいたします。
                           
兵庫県Oさん


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